千の旋律、千の悲哀、千の記憶Dear Loneliness Leave Me Alone

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | - | posted by スポンサードリンク
読んだあとに世界が美しく見える文章ってのがあるんだ、この世にはね。 16:25
「その人の人となり」を如実に表わしながら(つまりその人にしか絶対に書けない文体を持ちながら)、それでいて誰が読んでも美しさの一端を感じ取ることができる文章というものがある。この世にはある。それは見せかけのレトリックによるものではなく、単語や使用する漢字の選択や連ねていくリズムの向こう側に、その人が生きてきた時間と経験が伝わってくるものがそうなのだと僕は判断している。


たとえば2008年10月時点において、今年この世に投げかけられた文章の中で、至上の美しさを有していたものとして、「暮しの手帖」の松浦弥太郎編集長が記した「第4世紀34号」における氏の連載「こんにちはさようなら」が挙げられる。おそらく読んだ人は殆どいないであろうことは承知であるが、その文章に触れてもなお異論を挟むという人は少ないだろう。その中で弥太郎さんは雑誌という文化がこれから迎えるであろう未来と、その時にありうべき理想とする雑誌の作り手としての意識について書いている。静かな覚悟が伝わってくるその文章について、意地悪な僕は引用すらしないけれど、これは弥太郎さんが積み重ねてきた経験の中で培ってきた哲学の集大成でもあった。このテキストだけは「暮しの手帖」という歴史ある雑誌の編集長としてではなく、一個人の松浦弥太郎の決めた覚悟が伝わってきた。だから圧倒されるくらいに美しかったんだ。


そして。


8月も終わりに差し掛かる頃に本屋で手にした一冊の本。鮮やかなターコイズブルーに塗られた160ページしかない薄い本。そっけなく、でも滋味に溢れる手書きの文字で「臨床瑣談」とタイトルが書かれているだけの本。著者は、中井久夫。日本を代表する精神科医にして、溜息が洩れるくらいに美しい文章を、御年74歳を迎えた今なお綴り続ける偉大な随筆家である。この本は、氏の最新刊であり、版元のみすず書房の決断によって緊急出版されたものである(ゆえにページ数が少ないのだ)。




中井先生はこの本について、「『臨床瑣談(りんしょうさだん)』とは、臨床経験で味わったちょっとした物語というほどの意味である。今のところ、主に精神科以外のことを書こうとしている」と書きはじめる。そして、実際に自分の身に起こったこと、親類や知己を襲った病魔と相対した時間の回顧、後進へのちょっとしたアドバイスなどが記されている。精神科医として自分が患者とどのように接し、また臨床を積み重ねてきたかを、実際に看護師やソーシャルワーカーの前で講義を行った記録である前作「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)とはがらっと雰囲気を異にしている。


もちろん、僕はただの素人だ。精神科であろうが内科であろうが、書かれている内容について深い理解を得られたとは言い難いかもしれない。だが、中井先生の全ての著作について言えることであるけれど、それは現場で起こったことを元にして書かれている。しかも平易で美しい言葉で。つまりどこかのお偉いさんが頭の中でこねくりまわしたものを、抽象的かつ難しい表現で記していったものとは決定的に違う。そこには僕のような素人の心でさえも動かしてしまうエピソードに満ちている。文壇の世界きっての中井久夫ファンである松浦寿輝氏は、先生を評してこんな風に書いている。


「中井久夫の思考は、闘いの現場で掴み取られたサジェス(智慧)の結晶といった趣がある」(「青の奇蹟」所収"中井久夫―その人、その文"より)


「臨床瑣談」においては、入院時の院内感染に対して行っておくべき自衛策が記され、昏睡状態に陥った舅を助けるべく自分が果たした行為についてが控え目に提示され、ガンを持つ友人や知人へのアドバイス六カ条が明示される。そして、自分が前立腺ガンを患い手術した体験と、その際に使用した通称「丸山ワクチン」という日本では未承認の抗がん剤の効果について書かれる。この回の文章が毎日新聞の書評で掲載されて大反響を呼び、緊急出版に至ったのであった。


「SSM、通称丸山ワクチンについての私見」と題されたその文章は、氏がワクチンと出会ってから現在に至るまでの三十年あまりの時間の流れの中で、それを投与して助かった人、死んでいった人の記憶が綴られ、自らの身に巣食ったガンとの静かな共生の顛末が語られている。中井先生は、ガンについてこう記す。


「闘病という考え方もあるが、「闘う」といって気負い立つと、交感神経系の活動性が高まりすぎるきらいがある。「ガンも身のうち」という見方もどこかにあってよいように思う。実際、多くのガン細胞が(身体の中で)日々生まれては消えているのだから」(「ガンを持つ友人知人への私的助言」より)


別の章でも、「「闘病」という言葉は、少なくとも見舞い客など他者は使わないほうがよいような気がする。「闘う」という構えは免疫力を低下させるかもしれない。(中略)病を手なづける(馴致する)という感じがよいかもしれない」と書いていらっしゃる。「自分の命がかかってるんだ闘ってナンボだろう!」という向きにとっては最初から白旗を振っているように見えてしまうのだろう。だが、あんがいこのスタンスは大切なのだと思う。「消えろクソがん 」「今はクソがんを殺すことだけ考えて熱く生きています」と書いた故人もいたが、そうやって追い立てたり振り払おうと必死になればなるほど、それを養分に変えて増殖していく、そんなイメージを描いてしまうのは僕だけだろうか。どれだけ憎かろうと自分の体内で生まれたものに対して「クソ」と付けるなんて、と思ってしまうのは健康体であるがゆえの暴論だとは理解しているが。ただ、先生のような泰然自若とした境地を獲得できる人がどれくらいいるのかは想像だにできないが、自分がガンになった時には必ずや思い出したい言葉であることは間違いない。

中井先生は記す。 

「人の死亡率は百パーセントである。日野原重明先生が「医学は敗北の技術である」といわれるとおりである。最終的には医学の目的は、自然回復力も有限であることを忘れずに、これを適度に促して人生のQOL(Quality Of Life/生活の質のこと)の積分値を最大にすることであろう」

(日野原先生は聖路加国際病院の理事長であり、御年97歳を迎えられてもなおスケジュールは数年先までいっぱい、健康のために徹夜を止めたのは昨年というモンスターである。)


生まれて一歳を迎えた頃のこと、僕は父親が不用意に置きっぱなしにしていた煙草を二本食べて意識不明に陥ったそうだ。救命に担ぎ込まれ胃洗浄で事なきを得たらしいが、そんな重要な話を知らされたのはよりにもよって最近のこと。煙草に含まれるニコチンの致死量を考えても、あの時にあっけなく逝ってしまっていた可能性だってある。

一本道ノボル、享年一歳。

全く記憶に残っていないのだけれど、その話を聞かされてからは「あのまま死んでいたら」と想像することもしばしばある。僕は、そこから29年も生き延びてしまった。痛みも、苦しみも、恐怖心も、何もかも憶えてないのだから(封印しているのか?)、死の淵に立たされた人にありがちな、「一度は死んだ身だ、がむしゃらに人生を生きよう」という気持ち悪いくらいにポジティブな気持ちはこれっぽっちも芽生えてこない。「ちょ、今更そんなこと言われても」と苦笑しか浮かばない。その事実によって、「あー、どうりで」と、自分の人生観の結構全てに合点がいくことばかりだけれど。ただ、ラッキーというわけでもないが、一歳以降の生きてる時間の全てがオマケみたいなもん、あるいは長い長い延長戦のようなものだと思うと気が楽になるのは確かだ。僕が生の時間を積み重ねていくなかで、目にしてきた風景、得てきた知識、宿ってきた感情、出会って対話してきた人々、それら全てがもしかしたら知らなかったままなのかもしれないのだから。感謝の気持ちが湧き上がってくる。なるほど、これは一つの「世界を美しくみる方法」だなと思う。用意された残りの時間があとどれくらいなのかはわからないけれど、少しでもQOLを高めることに全力を注ぎたいとそのように思う。





余談だけれど、僕は物心ついてからこの方、煙草を認識すると親の仇を見るような目になり、なぜだかわからないけれど吐き気がして無性に腹が立ってイライラが募り、煙の臭いをかぐだけで不機嫌の極点に達していたのにはこんな納得できる理由があったのだ。では、経験者から一言。

煙草を止めたい人は、食うといいよ。

人生も終わるかもしれないけど、喫煙者としての日々も終わるから。
| Book_Interdependent | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
悲しみを決して失いたくない人たちに永遠に愛される唄 16:24


9.11の翌日に発売になるとは何かの縁であるのか。Lirico最新リリースであるScott Matthewの『Scott Matthew』発売まで10日となりました。今回ほど難産だったライナーはないというくらいに苦しんだのですが、上梓して原稿を送付したところ、sinから「かなり苦しんで書いたのがわかるね」とメッセージが。

今回も自分のスタイルは変えることなく、一読して内容と無関係なところからライナーの導入部は書かれています。通奏低音となるテーマは「かなしみ」。"Sad is beautiful"というフレーズをLiricoはそのマイスペに掲げているのだけれど、僕には言葉でそれを補足説明していく務めがあるのです。

僕が春に、mixiの日記でスコット・マシューを紹介した際に冠したタイトル「悲しみを決して失いたくない人たちに永遠に愛される唄」が、今回のプレスキットやサイトの紹介文で使われています(もちろんその時は日本盤リリースなんて夢物語でした)。なんだか、これを読んだ人で「(悲しみを失いたくないって)そんなの当たり前じゃないw」という突っ込みもあるみたいだけれど、それは全くの勘違いというもの。少なくとも戦後の日本社会は「かなしみ」とそれに付随する「喪失」から目をそらしてきましたし、今もそれは変わりません。<かなしみ>が起こることは必然であり、生きている以上避けては通れぬ道であることも頭の中では理解しているのに、(自分に対する)被害を最小限に食い止めるために思考停止を選択する人々のなんと多いことでしょう。「グリーフ」と「ビリーブメント」に対するケアは日本以外ではしっかりと確立されているのに、こっちではその用語について事細かに説明できる人は少ないのですね。たとえば、フリードリヒ・ニーチェは「悲劇は人生肯定の最高の形式である」と『悲劇の誕生』の中で言っているのに。


僕がタイトルにつけたのはどちらかというと反語的な意味合いも込めていて、「かなしみがなくては生きていけない人たち」ということです。僕はそうですが、皆さんはどうなんでしょう。僕にとっては喜怒哀楽のうち、「喜」も「楽」も、クソどうでもいいですよ(「怒」はとても大切ですけどね)。その二つがやってくるのは365日のうち2日ほどあればいいんです。あとの363日は、かなしみのことばかり考えていますよ。なんかいいことないかな、じゃなくて、なんもいいことなくて良いんですよ。喜びと楽しみを放棄し、こんなもの不必要だと切り捨てたときに、はっきりと見えてくるものがあります。かなしみからはじまるものがあります。

(そういう意味では、二か月前のタマスのライブは究極までにかなしくて素晴らしかったですね。あんなにかなしいライブは人生で味わったことはなかったです。それなりにライブに行ってきたつもりではありますが、断言できます。「いっそ時間が止まればいいのに」ではないんですよ。多幸感はかなしみに覆い尽くされてしまいました。青山グローリーチャペル公演の最後の最後、ノンPAで唄われた"Grace And Seraphim"。葬送曲でもあるこの歌が流れているときに、「今ここで死んじゃおうかな」と本気で考えていました。)

漢字源によると「悲」は「非」と「心」というパーツに分けられるそうです。「非」は羽が左右に反対に開いたさまらしいんですね。だから「心」を二つの羽が引っ張っていることを意味するらしいです。そこから、心が調和統一を失って裂けていき、転じて胸が裂けるようなせつない感じのことをいうようになったそうなのです。

ですが、僕はもっと希望をもった見方をしています。二つの羽によって「心」が空に舞っているようなイメージを。「心」が押し潰されたりするような重圧から解放されるような。かなしみがなくては生きていけないのです。そんな人たちに永遠に愛されるであろう唄、それがScott Matthewの『Scott Matthew』です。

今年の春の日記ではこんな風に書いています。

彼の声に含まれる底なしの悲しさと無限の優しさを共有したり理解できない人は、きっととても幸せなんだと思う。毎日が充実していて、たくさん笑いあって、理解してくれる人々に囲まれているんだ。胸を張って陽の当たる道を歩いてきたんだろうし、これからも歩いていけるんだ。スコットの歌声は、日蔭しか歩けない僕らのような人間にとって、足元を照らしてくれるダウンライト(足元灯)のようなものなんだよね。ささいなことで転んでしまって起き上がれなくなる人間が、そんなことにならないように小さな小さな光を当ててくれる。そこ、段差あるよ。そこに大きな石があるよ。溝もあるから気をつけてね。暗がりの道のなか、その仄かな明かりを頼りにして僕らは蝸牛のような遅さでも進んで行くんだ。でも、彼の歌声によって気づかされるだろう。闇は本当は明るいんだということを。決して真っ暗なんかじゃないんだということを。
| disc review | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
悲しみの四部作(Sorrow Tetrabiblos)、その三 10:31
タマスツアーの終了に一息ついたのも束の間、僕にはライナーの締め切りが迫りつつあることを思い出したのでした。あの感動の余韻に浸りたかったのに、無情にも時は止まってはくれないのですね。

ツアーにお越しいただいた方は、会場で配布されたフライヤー類の中にLiricoのネクストリリースに関するものを見つけられたかと思います。本当はライブ開演前のSEに鳴らそうと思っていたのですが、「出し惜しみしなくては」というsinの一声によって実現叶わず。

ニューヨーク在住のオーストラリア人SSWのScott Matthew。光栄なことにLiricoは彼のデビューアルバムの日本盤を9月にリリースすることになりました。



http://www.myspace.com/scottmatthewmusic

個人的にも2008年上半期ベストの作品(身内関連除く)の国内リリースに携わることができて嬉しい半面、「(こんなビッグネームなのに)いいのかな?」と戸惑ってしまう気分が無きにしもあらずです。なぜに他のレーベルはこのような名盤を華麗にスルーしているのか。本当に理解に苦しみますね。ウタモノは売れない時勢ですが、だからといって黙殺はないでしょうに。

現在は、どんな風にライナーを構成しようか練りこんでいる段階です。さすがにビッグネームだけあって、好き放題書くわけにはいかないでしょうし(普通に輸入盤が買える=ビッグネームという僕の認識です、悪しからず)。ましてや今作はある特定のフィールドの方を意識せざるをえないわけです。すなわちゲイの世界の人々を。そんなことを、sinはスコットのマネージャーから注進されたそうですが、それで売り上げが増してくれるなら願ったりですね。どんなジャンルでもそうですがゲイマネーを侮るなかれ、ですね。Liricoのリリースも"ダイバーシティ&インクルージョン"を徹底するという世間の潮流に乗っかったということで。

Scott Matthewの歌声は、僕にとっては全ての痛みや悲しみを引き受けてくれる身代わり王でもある。と、ここで以前にmixiに書いた日記を引用しようと思っていたのだけれど、ライナーにそれらの言葉を転載するかもしれないのでやめておきます。


そして今作は、Liricoの「悲しみの四部作」その第三弾となります。

友人たちとの馴れ合いや群れからのドロップアウトを声高に主張し、誰しもが簡単に到達できるステージではない「孤独」へと至るための自己研鑚の結晶を作り上げたEgil Olsenの「I am A Singer/Songwriter」。

自分たちが生きている日常の幕を引っぺがせば、その下には数多くの死体がうず高く積まれ、簡単に消えていく命の火があることを想像力で気づかせようと試みたTamas Wellsの「Two Years In April」(関係ないですが、あのライブを見て、一曲に込められたストーリーとメッセージを知ったうえでアルバムを聴けば、この一枚が空恐ろしいまでの傑作であることを痛感しますね)。

そして、自分自身の存在の危うさや抱えた病理と暗闇の部分を見つめ、大切な人であっても分かり合えないことを認識し、全ての終わりは悲しみに辿り着き一人ぼっちになることを確認すること。その上で自分の中の悪魔こそが最良の友人であることを受け入れるべきと諭したScott Matthewの「Scott Matthew」。


さまざまな種類の悲しみから生まれた作品をリリースすることになりました。そして、おそらく年末にはそれらの集大成となる作品が控えていますが、これについては時機が到来すれば書くことにします。Liricoはこの世界の全ての悲しみの音色をつまびらかにするまで止まることはできないのです(無理やり止められる可能性は高いですが)。フラジャイル、マイノリティ、サッドネス、トワイライト、よくもまあこんな一般受けしないキーワードだけでレーベルをやっているなあと思いますが、それはいずれ他に類を見ない形となってくれるんじゃないかなと。


ご存じでしたか? はるか昔の日本人は、「愛しい」と書いて「かなしい」と読んでいたことを。僕たち日本人は「かなしみ」を追い求め、真摯に対峙し、それぞれの感情の綾の中から様々なことを見出してきたのです。それがDNAに刻み込まれているのです。悲しみ(哀しみ/愛しみ)を否定してはいけないのです。
| disc review | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
はじまりの景色、フェティッシュの神が舞い降りる 16:05


何事にもはじまりの景色はある。


僕が女性の身体の中でも、とりわけ膝の裏側部分を愛することは折に触れて書いてきたことである。「ひかがみ」という名称を持つその場所を性的な視線で見ることの不思議。誰もが無防備に人目に晒しており、そこに対するケアを心がけている人も見受けられない(女性誌で「ひかがみを大切に」という特集が組まれているのを見たことはない)。TPOを選ばずひかがみに見とれている僕の、先行する女性の膝の裏側を凝視するあまり、上りのエスカレーターを進もうとして下りに足を踏み入れてコケるという経験の頻度たるや。階段もしかり。とかく日常生活をまともに営むことすらできやしないくらいに、近頃はひかがみが乱れ飛ぶ。昨年起こり、今年になって定着した感のあるショートパンツのムーブメントは、気後れすることなくただひかがみを凝視できるという点で、僕のために用意されたのではと訝しむくらいの恩恵を享受したのであった。今年も気温の上昇とともに、女子は布に覆われた部分を少なくする。僕は街を歩くのが楽しくてたまらない。


 この嗜好性に関して、ずっとその根底にあるものは「無防備」という感覚だと説明していた。大腿部と下腿部をつなぐブリッジの役割を果たしている大事な部分なのに、顧みられる機会があまりにもない。たとえば、膝前面の膝小僧に関してはそのフラジャイルさがたまらないが(運動部系の女の子が膝小僧に傷を作っている様子は、究極のエロティックだ!)、後面のひかがみは無防備さが愛おしくてたまらない。そのような感覚は常に持ち合わせているのだけれど、その一点だけじゃない。神秘性のようなものも僕は見ている。かつての日記に、「少女のひかがみに異界へと続く扉が突如開かれていくのを見た」と記したこともあった。これは、松浦寿輝の名作「あやめ 鰈 ひかがみ」という小説で描かれた感覚が最も近い。ひかがみを生と死をつなぐ部位として僕は見てしまうことが多々ある。強烈なまでのタナトスを感じるからこそ、余計にエロスが滲み出るというのはさもありなんだ。

 だが、このような長年の疑問がつい先日解決した。20年以上の時が経過し、僕がひかがみに生と死を見ることになった原風景が唐突に甦った。それはやはりフラジャイルであり、ヴァルネラブル極まりないものだったのだ。


続きを読む >>
| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
僕の家の中からはたぶん「みしまのくび」が出てくる。 18:18
この時期だからこそ少し自分のことについて書いてみましょう。一本道ノボルという男を昔から知る方もそうでない方も、私の書くものが世間一般からは少しズレていることくらいはわかっていただけるかと思います。さながら「ボーイズ・ビー(BOYS BE…)とボーイズ・ラブ(BOYS LOVE)の交配によって産み落とされしヒルコなのだ」ということ。男性にしか生じえない妄想と女性の専売特許的妄想が組み合わさることが、幸福な邂逅といえるでしょうか。その結果として、まともな形のものが出来上がるわけもありません。ヒルコであるということは欠損や欠落を余儀なくされた定めのもの。いびつであり、ドロドロとしていて、醜悪さしかそこにない。僕の場合はそれが性的な嗜好性へと明確に反映されているのでしょうが、その辺の未だ書かれざるエピソードは、やはりいつか書かれることでしょう。


しかし、アメリカの人類学者ジュールズ・ヘンリーは「家族の中には誰か一人くらいヴァルネラブルな存在がいるものだ」と指摘しました。自らヴァルネラブルな存在であると自覚する僕は、あながち間違ってはいないと思うわけですが、ということはそれを自覚したり公にしたりしない人が多いということに他なりません。ましてや、積極的にその存在である自分を引き受けることは、未来ある自分の人生がまともなものにならない事実を無理やり首肯させられることに等しいわけですから、認めたくもないのでしょう。誰だって一般的な物差しで、それなりに普通のレールの上を歩みたいと思うものです。地位や名誉、それに伴う金銭的成功、家庭という最少共同体の樹立などなど。僕は生まれてこのかた普通のレールの上を歩く自分がいるとは思ったことがないのですが、皆さんはどうでしょうか。勝ち組とか負け組という頭の悪い二元論的価値観などさらにもってのほかです。自我が生じる前に催眠のように祖母から「勝負を選ぶな、土俵に立つな、負けろ。逃げろ」と言われて育ってきたこともあり、第二次性徴期にそれなりに両親から定型レールを用意されても内心で拒絶ばかりをしていました。


だって、その直前にノストラダムスの大予言を知ってしまったのですから!! 僕らが暮らすこの地球が、僕が21歳のときに滅びるのであれば、良い就職とか結婚とかに何の意味があるのだろう。隕石が堕ちてきて津波が発生したら、苦しいのかな。ハレー彗星が接近して空気がなくなって死ぬのかな(ドラえもんでそんな話がありましたね)。「せんそう」かな。やはり祖母の意見は正しいのだと思い込んだのです。小学四年生だったはずです。両親が共働きで祖母に面倒を見てもらっていた僕は、その時期に最も接した時間が長かったことで、強烈な洗脳を受けていたのですね。その頃、sinがどこにいたのかだけが記憶にありません。年齢から逆算すれば保育所に預けられていたのでしょう。
続きを読む >>
| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
年度末最終日にすべりこませた2007年を彩った書物の数々 (2) 12:33
以下、具体的な順位を決めるのは野暮というものだし、かといって単にリストを並べるだけじゃあまりに芸がない。なもので、ここはブックセレクターでお馴染みBACHの幅允孝氏の仕事に敬意を表して、彼さながらのカテゴライズでご紹介させていただこうと。結構楽しいですよ、この作業は。原則として一人の著者につきピックアップは一作としております。それぞれにつぶさに言葉を寄せる気力がないので簡潔なコメントにて失礼つかまつります。コメントがない作品は後で気が向いたら加えておきます。

続きを読む >>
| - | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
年度末最終日にすべりこませた2007年を彩った書物の数々 (1) 23:50
2007年は自身が20代の終焉を迎える年ということもあり、人文のなかでも思想系の書物を中心に読んだ一年となった。貪欲に下の世代のところへも下りていく。主に中学生に向けた理論社の「よりみちパンセ!」シリーズや、高校生のための「ちくまプリマー新書」などから改めて目から鱗の経験を得た、そんな年。感銘を受けたトップワンはセットで2作。ちなみに現時点(2月末)での今年のベストは文句なしで森達也の「死刑 人は人を殺せる。でも人は人を救いたいとも思う。」(朝日新聞社)だが、この本はトップの2作とともに読むとさらに精度が増し、深い深い場所へと潜っていける。



■辺見庸 「たんば色の覚書 私たちの日常」(毎日新聞社)

 日常とはなにか、私たちの日常とは。それは世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいき、予定通り絞首刑を行うような狂れた実直と創造の完璧な排除のうえになりたつ。

                  (P52 自問備忘録より)


辺見庸は突き付ける。目を逸らそうとする人間にも、見ないように瞼を閉じる人間にも、しっかりと突き付ける。「お前は想像力を手放したのか?」と。「微温湯としての日常と引き換えに、くだらない連帯の代償に、表面上の繋がりに、お前の一番大事なものを対価として売り払ったのか?」と。世界を美しく見ようとしたいのならば、まずは世界の醜さをしっかりとその眼で確かめるところから始めろと病床から彼は記す。実際のところ、そんな直截的かつ挑発的なことは書いてないけれど、僕はそう読み取った。2007年7月28日京都Metroでひっそりと行われた彼の講演「私たちの日常」の全文を読んで欲しい。CCRの「雨を見たかい」とニルヴァーナの「MTVアンプラグド」が、糜爛したメディアの腐臭と確定死刑囚の日常へと繋がり、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の死刑執行シーンの頸椎骨が折れる音がメルヴィルの「バートルビー」における抵抗の手法へと展開していく。ここに記されている表現は、自らの余命が残り少ないと覚悟した者の魂の記銘だ。残された時間の使い方をしっかりと見据えた者の業火のごとき燃焼だ。だからこそ、そんな男の言葉に耳を傾けてほしいと願う。一人でも多く気付いて欲しい。群れから逃走せよ、想像力を取り戻すために。


僕はこの本を読んでから、しばしばジョギングがてらにとある一本の巨木の前に足を運ぶようになった。実家から車で5分も走れば、それはある。隣市の、山奥の中に。かつてあった企業の敷地内に。数年前までは、鳥インフルエンザの発生源として問題を起こした養鶏会社がそこにあった。そして、僕の眼前にそびえ立つ巨木で、会長とその妻はメディアの集中砲火を浴び追い詰められ首を吊った。大きな大きな木だ。僕は想像する。人生に疲れ果てた夫妻は、贖罪のために自らの命を捧げる。彼らが縄を括りつけたのは、あの枝だろうか、それともあっちか。縄は丈夫なものを選別したのだろうか、それとも手近にあったもので済ませたのだろうか。まだ夜も明けきらないサイレントブルーの時刻、二人は意を決して全体重を預ける。二人一緒に、せーので。あるいは夫が先に逝き、そして妻が後を追ったのか。もしかしたら互いの身体を結んでいたのかもしれない。使用した縄によっては即死にいたらず、酸欠で苦しみぬきながら死んでいくことになる。彼らはどっちだったのだろう。直ぐにか、さもなくば苦悶か。やがて失禁が起こり、股間から大腿を通って地面へと伝わったかもしれない。それはまるで点滴のように、ポタリポタリと落ちていったことだろう。二人を殺した木は、今もそこに生えている。やがて、また僕の目の前で青々とした葉を息吹かせるために。


そしてこの本は、副読本を用意すればさらにそのメッセージが引き立つ。



■星野智幸 「無間道」(集英社)
 

 傑作。私はこの小説を、椎名軽穂の「君に届け 5巻」のような爽やかな少女マンガと一緒に読まなくてはともてじゃないが読破できなかった。だが、この、反吐が出るような小説世界が荒唐無稽のものと思わなかった人間は意外と多いのではないだろうか。筆者の作品の中でもベクトルを同じくする、「ロンリー・ハーツ・キラー」の発表時とは全く違う時代の空気感。収録された三篇の中編は、「自殺奨励社会→ライフコントロール社会→いじめ」と主題を転々としながらも全てが繋がっている。とりわけ表題作に顕著であるが、徹底的に死を軽々しく描写することは、転じて死の重さの諷喩となっている。頸られ、腹を捌かれ、飛び降りて脳漿が散らばり、腐った肉体に蛆が沸く。私たちがどんな方法をとっても、結局のところ向かう場所は一つだ。そして、それを拒むことなんてできやしない。この本は、ゼロ年代版「完全自殺マニュアル」の役割すら果たしている。徹底的に死へと至る手法をカテゴライズして網羅することで、逆説的に生への強烈な動機付けと覚悟を促していた同書。それは星野自身も意図していないだろうし、当然ながら誰も指摘していないが、私が書いておく。


 だが、この本で唯一許せない部分がある。それは個人的な嫌悪でしかないのだが、あまりにも配慮に欠けているとしか言いようがない。それらの用語を使用することで、物語と文章そのものにドライブ感は生じているが、同時にそこにあるはずの含意が消失してしまっている。それは「一人で死ぬこと=ソロ、二人=デュオ、三人=トリオ、以下続く」という具合に造語を用いていることだ。その感覚はアイロニーとしてはさもありなんと思うのだけれど、小説世界では一人で死ぬことが完全なる侮蔑の対象とされている。「ソロ落ち決定ね」という具合に。誰かと繋がっていなければ不安でしょうがないという現在のケータイ依存・SNS依存社会を逆手にとり、死ぬ時も誰かを道連れにしたり連れ立たないと人として惨めな存在でしかないという状況を描き出した星野の意図は十分わかる。


 だけど、ちょっと待ってくれ。その単語をそういう風に使わないでくれ。「ソロ」とは、選ばれた気高き者だけが手にする称号であり、孤独というプレステージへと到達できた者にだけ贈られる名誉でもあるのだ。こればっかりは読んでいてむかっ腹が立って仕方がなかった。傑作にケチをつけたいわけではないけれど、なんだか哀しい気持ちになってしまったのだ。詳しくは以下の日記を参照のこと。

 http://llorando.jugem.jp/?eid=10#sequel

 http://llorando.jugem.jp/?eid=11#sequel
| - | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
遠く短い光から 水のしずくハネかえる 06:57


■今週一番の驚きと言えば、微熱教授のテキストにhueコンピならびに僕が書いた文章が取り上げられたことに他なりません。そこで微熱教授は、ヒップホップという音楽が成り立ちと進化の中で抱えてきた"矛盾"の中から立ち上る魅力について語ってらっしゃいます。


http://pomeric.blogspot.com/2008/02/various-artists-once-hue-always-hue.html


僕は、改めて「アンダーグラウンド」ピラミッドの最下層部でしかなかったはずの「ナードヒップホップ」が、いつの間にか確固たるセグメントを築き上げてしまっていたことについて考えさせられました。まあ周りのアンダーグラウンドの連中が自ずと消えていっただけ、という表現もできるのでしょうけれど。


「(hueは)ビートやリズムに対して無自覚/無知だった僕らの劣等感から出発している」


これは上記のテキストで引用された僕の言葉です。僕らというのはsinも含めての話ですね。端的に表せば、それしかないわけです。ジャンルという境界を行き来する「マージナル」という活動指針は、完全なる後付けでしかありません。ヒップホップという超巨大産業に真っ向から挑むなんてナンセンスなわけですよ。


そもそも僕やsinはヒップホップらしい音楽なんてビースティー以外は聴いたことがなかったわけですから。高校時代に、「そういや渋谷陽一のミュージック・サテライトでナントカいうラッパーが射殺されたとか言ってたなあ。怖い世界だなあ」という程度の認識。ヒップホップに限らず、ブラックミュージックを聴いたことすらないですよ、未だに。5年ほど前の日記に書いた記憶がありますけれど、「自分のCDラックの人種別比較は、白人9:黄色人種1:黒人0だ!」と。これは今現在も変わってません。おそらくsinだってそうでしょう。ヒップホップのA&Rをやるからといって、ご丁寧にヒップホップのクラシックに認定されている音楽を聴いているはずがありません。そんなことをすれば「思い込み」という名の牢獄に幽閉されてしまうのです。


「思い込みを捨て、思い付きを拾う」


僕らは僕らのパースペクティブの中でヒップホップを解釈すればいいんじゃないのかな、とそんな感じですね。ヒップホップってそれが許される唯一のジャンルでしょ。田畑と山と川しか存在しない場所に暮らした田舎者で、煙草もやらず酒も飲まないし空気が悪いところが嫌いだからクラブにも当然いかず、ビートやリズムなんて意識して音楽を聴いたことがなく、超がつくほどタイトな服しか着ない。他人を蹴落とすのなんて大の苦手で、何が何でも成功したいとか、巨万の富を手にして女をはべらかしたいとか人生で願ったこともない。刺激を唾棄し、何も起こらない退屈を愛する。群れることを嫌悪し、徒党を組むことを厭忌する。そんな人間がヒップホップと向き合えば、それすなわち劣等感の塊ですよ。ルサンチマンこそが根源です。絶対的な弱者であるがゆえに育まれた感情が、多くの人が気付かなかった琴線を生み出していく。生じる隙間を狙って光を照らすんです。ヒップホップのはずなのに、どうしてこんなにも美しいのだろう。どうしてこんなにも胸に染みるのだろう。
続きを読む >>
| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
「Nomadism」という生き方、あるいは「Nomadology」という分野について。 00:04


2月11日 (mon) at unagidani sunsui
「いいにおいのするパーティー3」
open16:00 start17:00
前売り2800(プラス1DRINK500yen)当日3300(プラス1DRINK500yen)


出演:
Tujiko Noriko
大友良英(ターンテーブルセット)
セーラー服おじさん
Vampillia
Bleubird
Nomad
Zucchini Drive



家を出る前は、まさかこんな感動的な夜になるとは一切予想もしていなかったわけで。一年半前のZucchiniや昨年のsosoの大阪公演を顧みても、完全に「大阪=アウェー」の文字しか浮かばない。むしろメインはライブよりも、初めて訪れる阪急メンズ館にあるかなとそっちに重点を置いてしまったくらいだ。 そんなこんなで、メンズ館での試着しまくり話しまくりで体力の大半を使い果たした僕は、sinからもらった「出番は19時半からだから」というメールの通り19時過ぎに会場のSunsuiへ向かう。会場を見渡すと、デジャビュというか、昔どこかで見かけたような顔の人が多い。大阪アンダーグラウンドの集いのごとき様相だ。そんな和やかな雰囲気だったから、いつも僕が感じていた「アウェー感」はどこか懐かしい気分にかき消されつつあった。


まずは、Zucchiniのトムと再会の握手。相変わらず奴は喋り倒すな。そしたらsinがNomadを紹介してくれた。ベルギー人の平均身長は欧州諸国の中でも低い176cmなのだけれど、見上げてしまうトムに負けずおとらず背が高いNomad。めちゃくちゃ猫背なくせして僕より高かったので、背筋伸ばせば184くらいはあるんじゃなかろうか。異国の人間なのに目を見て離せないNomad。もにゃもにゃと喋ってるNomad。まるで少年みたいだ。それより草食動物みたいだ。さもありなん、sinによると彼もまたsosoことトロイと同じくベジタリアンであるそうで。しかもアルコールも飲まない(遺伝子的に飲めないはずがないから、"飲まない"が正しいのだろう)。もちろんタバコなんて一切吸わない(どっかのボスと違って落ち葉広いも一切しないときた)。まさにヒップホップ界のストレートエッジだな。イアン・マッケイの魂がこんなところに引き継がれているとは。そこまで徹底にストイックな人間だからこそあのような音楽が生まれるのだろうと納得。でも、ドラえもんが大好きなんだって。


続きを読む >>
| Live Report | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
Lirico第4弾リリース 「Sweetly Elegiac Lullaby (From Norway)」 19:20


いつ発表できるのだろう、もういいのかな?と待ちくたびれて数週。今月発送のp*disのメルマガにて最初の一報が出ましたので、これをもって解禁と解釈し、ここに皆様に速報としてお知らせさせていただきます。


昨夏のタマス・ウェルズのファーストアルバム再発から沈黙すること8か月。ようやくLiricoの第四弾リリースが決定いたしました。スカウティング活動に励み、幾度となくリリース候補の報告を挙げるも(音源を送るも)、A&Rのsinは一向に首を縦に振らず。


「次のアルバムまで様子を見よう」
「ちょっとカラーじゃないね」
「ボーカルの声質が弱いね」
「キラーチューンがないよね」
「面白いけどバンドサウンド過ぎるかな」
「次はスウェーデンあたりがいいな」
「録音がもっとマシだったらなあ」


Liricoというレーベルは、スカウトマンである一本道ノボルの感性が鋭敏に反応したのち、さらにsinの琴線を通すという二重の濾過装置によって方向づけられているわけですね。幾ら兄弟とはいえこの二つのフィルターが合わさる部分は非常に狭いと言えましょう。僕の間口は広いけれども、sinによるビジネス視点が介在すると途端にせばまるのは当然だけれど。Liricoに対するヴィジョンが明確であればあるほど、事は上手くは運ばないわけです。軸になるものがブレないことを何よりも大切にしているから。ゆえに依然、白鳥(レーベルロゴマーク)飛び立たず、なのだ。
続きを読む >>
| disc review | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
| 1/3 | >>