千の旋律、千の悲哀、千の記憶Dear Loneliness Leave Me Alone

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はじまりの景色、フェティッシュの神が舞い降りる 16:05


何事にもはじまりの景色はある。


僕が女性の身体の中でも、とりわけ膝の裏側部分を愛することは折に触れて書いてきたことである。「ひかがみ」という名称を持つその場所を性的な視線で見ることの不思議。誰もが無防備に人目に晒しており、そこに対するケアを心がけている人も見受けられない(女性誌で「ひかがみを大切に」という特集が組まれているのを見たことはない)。TPOを選ばずひかがみに見とれている僕の、先行する女性の膝の裏側を凝視するあまり、上りのエスカレーターを進もうとして下りに足を踏み入れてコケるという経験の頻度たるや。階段もしかり。とかく日常生活をまともに営むことすらできやしないくらいに、近頃はひかがみが乱れ飛ぶ。昨年起こり、今年になって定着した感のあるショートパンツのムーブメントは、気後れすることなくただひかがみを凝視できるという点で、僕のために用意されたのではと訝しむくらいの恩恵を享受したのであった。今年も気温の上昇とともに、女子は布に覆われた部分を少なくする。僕は街を歩くのが楽しくてたまらない。


 この嗜好性に関して、ずっとその根底にあるものは「無防備」という感覚だと説明していた。大腿部と下腿部をつなぐブリッジの役割を果たしている大事な部分なのに、顧みられる機会があまりにもない。たとえば、膝前面の膝小僧に関してはそのフラジャイルさがたまらないが(運動部系の女の子が膝小僧に傷を作っている様子は、究極のエロティックだ!)、後面のひかがみは無防備さが愛おしくてたまらない。そのような感覚は常に持ち合わせているのだけれど、その一点だけじゃない。神秘性のようなものも僕は見ている。かつての日記に、「少女のひかがみに異界へと続く扉が突如開かれていくのを見た」と記したこともあった。これは、松浦寿輝の名作「あやめ 鰈 ひかがみ」という小説で描かれた感覚が最も近い。ひかがみを生と死をつなぐ部位として僕は見てしまうことが多々ある。強烈なまでのタナトスを感じるからこそ、余計にエロスが滲み出るというのはさもありなんだ。

 だが、このような長年の疑問がつい先日解決した。20年以上の時が経過し、僕がひかがみに生と死を見ることになった原風景が唐突に甦った。それはやはりフラジャイルであり、ヴァルネラブル極まりないものだったのだ。


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| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
僕の家の中からはたぶん「みしまのくび」が出てくる。 18:18
この時期だからこそ少し自分のことについて書いてみましょう。一本道ノボルという男を昔から知る方もそうでない方も、私の書くものが世間一般からは少しズレていることくらいはわかっていただけるかと思います。さながら「ボーイズ・ビー(BOYS BE…)とボーイズ・ラブ(BOYS LOVE)の交配によって産み落とされしヒルコなのだ」ということ。男性にしか生じえない妄想と女性の専売特許的妄想が組み合わさることが、幸福な邂逅といえるでしょうか。その結果として、まともな形のものが出来上がるわけもありません。ヒルコであるということは欠損や欠落を余儀なくされた定めのもの。いびつであり、ドロドロとしていて、醜悪さしかそこにない。僕の場合はそれが性的な嗜好性へと明確に反映されているのでしょうが、その辺の未だ書かれざるエピソードは、やはりいつか書かれることでしょう。


しかし、アメリカの人類学者ジュールズ・ヘンリーは「家族の中には誰か一人くらいヴァルネラブルな存在がいるものだ」と指摘しました。自らヴァルネラブルな存在であると自覚する僕は、あながち間違ってはいないと思うわけですが、ということはそれを自覚したり公にしたりしない人が多いということに他なりません。ましてや、積極的にその存在である自分を引き受けることは、未来ある自分の人生がまともなものにならない事実を無理やり首肯させられることに等しいわけですから、認めたくもないのでしょう。誰だって一般的な物差しで、それなりに普通のレールの上を歩みたいと思うものです。地位や名誉、それに伴う金銭的成功、家庭という最少共同体の樹立などなど。僕は生まれてこのかた普通のレールの上を歩く自分がいるとは思ったことがないのですが、皆さんはどうでしょうか。勝ち組とか負け組という頭の悪い二元論的価値観などさらにもってのほかです。自我が生じる前に催眠のように祖母から「勝負を選ぶな、土俵に立つな、負けろ。逃げろ」と言われて育ってきたこともあり、第二次性徴期にそれなりに両親から定型レールを用意されても内心で拒絶ばかりをしていました。


だって、その直前にノストラダムスの大予言を知ってしまったのですから!! 僕らが暮らすこの地球が、僕が21歳のときに滅びるのであれば、良い就職とか結婚とかに何の意味があるのだろう。隕石が堕ちてきて津波が発生したら、苦しいのかな。ハレー彗星が接近して空気がなくなって死ぬのかな(ドラえもんでそんな話がありましたね)。「せんそう」かな。やはり祖母の意見は正しいのだと思い込んだのです。小学四年生だったはずです。両親が共働きで祖母に面倒を見てもらっていた僕は、その時期に最も接した時間が長かったことで、強烈な洗脳を受けていたのですね。その頃、sinがどこにいたのかだけが記憶にありません。年齢から逆算すれば保育所に預けられていたのでしょう。
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| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
遠く短い光から 水のしずくハネかえる 06:57


■今週一番の驚きと言えば、微熱教授のテキストにhueコンピならびに僕が書いた文章が取り上げられたことに他なりません。そこで微熱教授は、ヒップホップという音楽が成り立ちと進化の中で抱えてきた"矛盾"の中から立ち上る魅力について語ってらっしゃいます。


http://pomeric.blogspot.com/2008/02/various-artists-once-hue-always-hue.html


僕は、改めて「アンダーグラウンド」ピラミッドの最下層部でしかなかったはずの「ナードヒップホップ」が、いつの間にか確固たるセグメントを築き上げてしまっていたことについて考えさせられました。まあ周りのアンダーグラウンドの連中が自ずと消えていっただけ、という表現もできるのでしょうけれど。


「(hueは)ビートやリズムに対して無自覚/無知だった僕らの劣等感から出発している」


これは上記のテキストで引用された僕の言葉です。僕らというのはsinも含めての話ですね。端的に表せば、それしかないわけです。ジャンルという境界を行き来する「マージナル」という活動指針は、完全なる後付けでしかありません。ヒップホップという超巨大産業に真っ向から挑むなんてナンセンスなわけですよ。


そもそも僕やsinはヒップホップらしい音楽なんてビースティー以外は聴いたことがなかったわけですから。高校時代に、「そういや渋谷陽一のミュージック・サテライトでナントカいうラッパーが射殺されたとか言ってたなあ。怖い世界だなあ」という程度の認識。ヒップホップに限らず、ブラックミュージックを聴いたことすらないですよ、未だに。5年ほど前の日記に書いた記憶がありますけれど、「自分のCDラックの人種別比較は、白人9:黄色人種1:黒人0だ!」と。これは今現在も変わってません。おそらくsinだってそうでしょう。ヒップホップのA&Rをやるからといって、ご丁寧にヒップホップのクラシックに認定されている音楽を聴いているはずがありません。そんなことをすれば「思い込み」という名の牢獄に幽閉されてしまうのです。


「思い込みを捨て、思い付きを拾う」


僕らは僕らのパースペクティブの中でヒップホップを解釈すればいいんじゃないのかな、とそんな感じですね。ヒップホップってそれが許される唯一のジャンルでしょ。田畑と山と川しか存在しない場所に暮らした田舎者で、煙草もやらず酒も飲まないし空気が悪いところが嫌いだからクラブにも当然いかず、ビートやリズムなんて意識して音楽を聴いたことがなく、超がつくほどタイトな服しか着ない。他人を蹴落とすのなんて大の苦手で、何が何でも成功したいとか、巨万の富を手にして女をはべらかしたいとか人生で願ったこともない。刺激を唾棄し、何も起こらない退屈を愛する。群れることを嫌悪し、徒党を組むことを厭忌する。そんな人間がヒップホップと向き合えば、それすなわち劣等感の塊ですよ。ルサンチマンこそが根源です。絶対的な弱者であるがゆえに育まれた感情が、多くの人が気付かなかった琴線を生み出していく。生じる隙間を狙って光を照らすんです。ヒップホップのはずなのに、どうしてこんなにも美しいのだろう。どうしてこんなにも胸に染みるのだろう。
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| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
生きていることのなつかしさに。(続・げんてんとは) 01:54


わたしは、自分自身の行動には必ずや理由と根源があると信じているクチで、「なんとなく」や「特にこれといって意味はない」ということが大嫌いなのです。全てにおいて説明が可能だ。そう思って生きているわたしは「クリア」という視座に貫かれている。そんなパースペクティブを抱えて生きることが一つの指針になっちゃっている。だから、ふとした疑問にだってその原初的風景を見出してしまうのです。


「人はどうして睡眠のさいには手を両の太ももで挟むのか」という命題がありますね。わたしの場合はしばしば入眠時に催してしまう欲求ですが。どうしてだろうと考えた時に、わたしにははっきりと一つの風景が見えてくるのです。もしかしたらそれ以前にも本能でやっていたのかもしれませんが、それ以降は意識的になったというターニングポイントがあります。


そこには「死」という概念が関わってきます。


わたしが小学二年生のとき。としは7歳であり、忘れもしない1985年8月12日。御巣鷹山に飛行機が墜落します。日航ジャンボ機墜落事故です。子供のころの記憶がどういうわけだか三十路を越えた瞬間、忘れていたような些細なことまで蘇ったりしているのですが、その時のことだけは今でもはっきりと記憶しています。現在とくらべても鮮明さのかけらもない小さなテレビのブラウン管に映し出されたニュース速報。「123便が行方不明」という文字がもたらす不安感。画面が変わって、広大な山の風景ともくもくと立ちのぼる噴煙。ヘリコプターの轟音。
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| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
フラグメント化する社会/パノプティコンをかいくぐって 03:19


この世界の断片化が進んでいることに対して、危惧を抱いたのがいつだったのか明確には憶えてはいない。フラグメントの季節。僕たちは、新たなメディアの登場により、全体ではなく部分の享受に慣れてしまった。感覚が麻痺したという側面はあるだろう。新曲が即座にアップされるmyspaceは、断片による全体の崩落を生んだ。全曲フル試聴は当たり前、アルバムを待たなくともウェブ上を探せば無料ダウンロードできる音源だけで全体の半分以上を構成できたりする現状。ますます音楽雑誌メディアの存在感は希薄になっていくだろう。軽く一例を挙げるなら、音楽誌のアルバムレビューの空洞化は甚だしい。鹿野淳の「MUSICA」は、ミュージシャンに音源レビューをさせるという隠し玉のごとき手法を採用しており、ましてやそれが数多あるレビュー以上の奏功があるのだから、自嘲含めて墳飯ものだ。僕自身、Liricoのスカウンティングにはmyspaceや海外の音楽ブログが欠かせないわけで、その結果として"アルバムを楽しむ"という行為を潔く捨てざるを得なくなったという弊害はどうしたってある。

YouTubeもまたしかりで、見逃したテレビ番組やスポーツのいち場面を脳内でつなぎ合わせて完成させることが一般化しつつある。その場に居合わせなくても、録画しなくても、"それ"と出会える可能性が一気に増した(おかげで楽しめた番組やシーンはすでに数え切れないくらいある)。

フラグメントの強みは今後出てくるのだろうけれど、YouTubeには素人が撮影したライブの流出も数多く、「現場感の喪失」は今後も進んでいくだろうし、そうなってくると行ったり見てもいないのに「行った気になる」「見た気になる」という感覚を警戒せざるを得なくなる。それだけならまだしも、活字化する/言語化するという行為もまた、ブログやSNSの普及によって僕らはたくさんの機会を得るようになった。「つもりになって」言葉を費やすことほど、厄介なことはない。だってそこに 「リアル」は生まれないのだから。それらを含めた問題は、「知」に関してだ。インターネットの普及から進化によるこの10年で、「知」に関するインフラは充足以上のものを獲得したことは間違いない。


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| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
想像力は死んだ、想像せよ。  Imagination morte imaginez 04:28


僕の「笑い」の文化に対する感性は、浅草キッドの水道橋博士および「サイキック青年団」その他のラジオと活字による影響下で形成されたものなので、この度のM1結果に関して仔細に分析する言葉を持たない。年末恒例行事ゆえに家族全員が凝視していたけれども、芸の披露が終わるたびに「風呂に入らな」とか「洗い物をしないと」という具合に一人また一人と散っていった。男前以外は人間として認めない母は呟いた。「チュートリアルが二年連続で優勝やね」。番組合間のオートバックスのCMで流れた二人の掛け合いの方が余程面白いと言いたかったのだろう。


(ネタに関する)トピックの取捨選択の凡庸、フォーマットの凝固による動脈硬化、それにともなう「ロゴス」と「ミュトス」の拮抗と配分(わかり易く言えばロジカルとその対義語であるイマジネーションの調合率だ)、問題として浮上していたそれらは相も変わらず解消されるものでなかった。ピンとして演じれば、それら全てを凌駕できる才はあれど(「世界のナベアツ」が現在試みているアプローチなどはまさにそうだ)、それが二人になるとなんと困窮を極めることよ。コンビが起こす、一瞬を永遠に変えるようなケミストリーなぞ、ことM1に関しては数年に一度しか見受けられない。


2001年の麒麟はロゴスとミュトスを鮮やかに反転させ、2003年の笑い飯はフォーマットの革新的アップデートの完成とトピック・パラフレーズのモディファイを同時に行うという奇跡を演じ、2005年のチュートリアルはイマジネーションのインプロビゼーションによる遊戯の快楽を僕たちに見せつけた。隔年で起こっているその魔法を、本来であれば今年目撃できるはずであった。だが、僕たちが見たものは「下剋上」というイベント運営上のシナリオ面における新手だけだった。どうでもいいね、うん、そんなことはどうだっていい。だって、みんなが望んでいたものはたった一つでしょう。正しい言葉で表現できないけれど、それはThe Boomの「手紙」のこんなラインのようなこと。


「きっと、僕らの夢を完璧に成し遂げてくれるシンガーが出てきたら、
 僕はギターとマイクを置いてそいつの歌に夢中になっているかもしれない。
 僕はただ、音楽を愛していたいだけだ。
 ロックンロールにこめかみを撃ち抜かれたいだけなんだ」



笑いを天職として選択する人間は、神の領域に近づくことをその使命とすると僕は考えている。だが、「笑い」はここ数年の間にメディアによってレイプされ、お気楽でインスタントなものに成り下がり、「お笑い」となった。お笑いに従属する輩はたくさんいたね、一昨日も。氾濫していたね。もうどうでもいいよ。
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| coming_out | comments(2) | - | posted by 一本道ノボル
愛しているよ。これからもずっと。 08:26
あなたのことが大好きだ。
あなたがいなくちゃ生きていても楽しくなんてない。
あなたが僕を救ってくれた。
あなたが僕を変えてくれた。
常にあなたが僕のそばにいた。
そして、これからも僕の人生はあなたとともにある。





と、臆面もなく書き出したこの日記。愛を捧げたあなたとは、ここでは「雑誌」のこと。雑誌を愛する一人の男が雑誌の未来について憂いでみせる、そんな日記となる。ただの戯言の類の。


雑誌メディアの未来、それは決して明るくはない。その認識からはじめる必要がある。単なる発行部数や広告出稿量の減少にとどまる問題ではないのだ。未来といったって、それはミライみたいな漠然とした先の話じゃなく、2020年前後の近未来に僕は想いを馳せる。
干支ひとまわりだ。



      ――以下はSFまがいの予測――


2007年問題を契機として、相次いで創刊された団塊の世代層に向けた雑誌群の淘汰も終わり、とりわけファッション誌全般に目を向けてみれば、広がり続ける経済格差によって階級別エスカレーター雑誌が定着しているような頃の話だ。それはどのようなものか。近年、とりわけファッション誌においては、プレゼント応募の際のアンケート項目に年収をも記載させる雑誌が増えてきた。これまでは、経年によってある雑誌を卒業すれば、その次は一つ世代を上げた雑誌へという具合に、一社が制作する雑誌群の中でエスカレーター方式に上層へとあがらせていたものが(とりわけ女性誌に顕著だが)、ここに「クラス」という概念も植え込まれていくということだ。つまり、読者に対する年収制限を設けている『LEON』誌であれば、

「20代向け→『LEOS』 30代向け→『LEONARDO』 40代向け→『LEON』 50代向け→『LEOPARD』」

という具合に(20代と50代は架空の雑誌名です)。その時には、現在の女性ファッション誌に跳梁する「クラス感」という文字に別の意味合いが大きくなっているだろう。


そして活字に慣れ親しんだ中年層の漸次的減少(つまりは死んでいくわけだから)、識字率と学力の低下が招いた若年層の慢性的文字離れと、それに伴う国民全体を覆うメディア・リテラシーの欠落は日本全土に蔓延し、やがて作り手サイドにもその弊害をもたらすことは目に見えている。たとえば編集者の知識不足、レベルの高いライターの不足。進化していくであろうデザイン方面の充実とは裏腹に、文字が担っていた「雑」の部分が抜け落ちた無味乾燥な雑誌も多くなっているだろう。かつては高い志のもと旗振り役をつとめた雑誌メディアは、消費者の顔色を伺うだけの「読み捨てられるだけのもの」という存在にまで堕落しかねない。「雑誌」というメディアはこれまで文化を作ってきた。そして、これからも作っていかないといけない使命を有していると僕は思う。いま雑誌文化に携わる人には、脈々と受け継がれた伝統を継承し、未来を担う次の世代にバトンを渡していく必要がある。



       ――以上、SFまがいの予測終了――
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