千の旋律、千の悲哀、千の記憶Dear Loneliness Leave Me Alone

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渡辺ペコ 「ラウンダバウト」  21:12


渡辺ペコ待望の長編初連載は、市立春日局中学校の2年3組を舞台にした青春群像劇だ。14歳女子の肌理こまかい感情の機微や葛藤が、体育や保健や道徳などさまざまな学校の授業や放課後の部活に絡めて描かれていく。「蛇にピアス」「東京膜」ときた作風が、まさかここで14歳たちを主人公にした王道の物語になるとは思ってもみなかった。1巻における主要登場人物は以下のメンバー。


野村真(ハードボイルド漫画家に想いを寄せる妄想少女)
坂東英子(真の親友)
黒柳徹(真のことが好きな園芸マニア)
草野(彼女たちの担任)
水上たまき(学校をドロップアウトしたクラスメイト。愛読書「QJ」)
野村優(真の姉:高校一年)


さて、ざっと上記の名前に目を通していただければお解かりのとおり、この主要メンバーは「世界ふしぎ発見!」に出演するタレントが元ネタとなっている。なんといっても、各キャラクターの設定が上記の番組を踏襲しているという事実から眼を背けることができない。バカさと末っ子的無邪気さを兼ね備えた真。知らず知らずに設定したキャラクターを変えられずしゃしゃりでてしまう英子。洞察力と聡明さをもった黒柳。全員をまとめる立場の草野。なんだろう、この見事に腑に落ちる感覚は。あとは小林麻耶的役割さえいえれば完璧じゃないか。彼女の意図するところが全くわからない。単なる思いつきなだけにもとれるし、「キャラクター」という要素に対する強烈なアイロニーにもとれる。でもどことなく痛快な気分になってしまうのは、それが見事に嵌まっているから。劇中、随所にオフビートなギャグや小ネタが効果的に挿入されているが、そこにも光るものを見出すことができた(それは、あいだ夏波「スイッチガール」のような女子のリアリズムに根ざしたものではなく、東村アキコのような特定世代の感覚を絶妙にくすぐるものだ。真が読んでるマンガが「特攻の拓」だとか)。


そして、キャラクターの魅力やプロットの奇抜さ、スピーディーなカット割によって物語世界に引き込まれながら第一話を読み終え、第二話の冒頭のこの台詞を目にしたとき、僕はこのマンガが傑作であることを確信したのだ。場所は体育館にて、班ごとに車座になりながら、真がメンバーにこう問いかける。


「あたしはねえ、心の底から全国の大人の女性に問いたいよ。
 中学時代の「創作ダンス」の経験は、あなたの人生において
 なんらかの役に立ちましたか?と」



創作ダンス!! ぼくは女子ではなかったので直接は関与できなかったのだけれど、噂には聞いたことがあるのだ(中学のときはほとんど女子と話をしなかったので)。ラジカセ用意して、体育館にゆううつそうな顔して向かっていた彼女たちの横顔を思い出す。カセットテープが全てを支配していた音楽メディアだったあの頃。1本のテープにはたくさんのドラマが詰まっていた。


ぼくにとっての傑作の規定とは、「誰もが一度は通過する日常のひとこまにファンタジックな魔法がかけられたその瞬間のカタルシス」にこそ感じるものだ。たとえば、椎名軽穂「君に届け」1巻における席替えのシークエンス。たとえば、岩本ナオ「僕の一番好きな歌」(「スケルトン・イン・ザ・クローゼット」収録)における発表のシーン。たとえば、南波あつこ「先輩と彼女」における「二つ上の先輩がどうしようもなく大人に見える」という感覚。誰しもが、好意を寄せる人の近くでその後の数ヶ月を過ごしたいと願うだろうし、誰しもが出席番号と日付の関係性に憂鬱な気持ちになり、誰しもがたった二年生まれるのが早かっただけなのに上級生が大人に見える(翻って自分が子供に思える)。そして、爽子が風早たちと打ち解ける契機が席替えである必要性はないし、ビートルズの素晴らしさを発表の際に訴えなくても構わない。よく考えると物語の展開上そうでなくても良いものが、「この結果しかないだろう」と強く思えるものに、ぼくは傑作と断じてきたのだ。


だから、世間的には傑作/名作とされている作品の中でも、内容によってはぼくにとってどうでもよいものでしかないものもある。「バキ」だの「カイジ」だの「クローズ」だの「ウシジマくん」だの。不良同士の抗争も、裏をかきあうギャンブルも、誰が地上最強か決定する格闘も、闇金も、そんなものは何一つぼくの日常には関係ない。過去の何処を探したって縁がない。「力」によるパワーバランスや、「金」による支配といった目に見える要素は、個人的にはどうだっていいんだ。それよりも、少女や少年の恋心の揺れ動きや思春期の懊悩といった、可視化のできない部分や移ろいゆくものがカタルシスへと転じていくことが大好きなんだ。そこから見えてくる情緒、つまりは「もののあわれ」(この辺の感覚は、切通理作の最新著書「情緒論」に詳しい)。日本人なんだもん、「もののあわれ」に支配されて当然なんだ(余談だが、ぼくの書いたタマスのライナーなんて「もののあわれ」について合計2万字を書いたようなものだし、今後も「もののあわれ」しか書かない)。 


渡辺ペコが、中学生を主人公に据え、学校の授業というカリキュラムを通して見事に描ききったこと。それは「明日もある」という感覚だ。毎日は続いていくということだ。将来の夢を妄想しながら、友達とぎくしゃくしたり、好きな人と喋ることができたからって気持ちが上がる日常。彼女たちにとっては、日々は決して泡なんかではない。フィッシュマンズの佐藤伸治が「SLOW DAYS」の中で描いたライン、"長い長い夏休みは終わりそうで終わらないんだ"とどこか共振しやしないか。それは第二話のエンディングで結実する。創作ダンスをきっかけに真との中が微妙なものになってしまった英子が仲直りをはたすシーンだ。色んな思いを親友に伝えたい彼女は、それらを飲み込んでたった一言を発する。「また明日ね!」と。真から返ってくる「うん、また明日ね!」という言葉。明日、学校に行けば、また大好きな親友に会える。だからこそ、中学を不登校になった水上たまきが「学校にバクダンが落ちればいい。明日なんて終わりまでのカウントダウンでしかない」と感じる第三話の冒頭が見事に生きてくる。ポジティブからネガティブへの鮮やかな反転。前日、一人の少女からあれ程想いを託された学校という場所は、夜が明けた瞬間に別の少女からは憎悪の対象と変わる。


クラスメイトと学校と家族だけが彼女たちの全ての世界だ。これもまた一つのセカイ系に対するカウンターパンチである。佐々木敦氏は今月の「Invitation」誌のJ-POPの連載コーナーで「すべての女子中高生がチャットモンチーだったらいいのに」とうそぶいた。もちろん、この現実世界においてはそんなことは有り得ないのだけれど、まさしく「ラウンダバウト」の世界の中では彼の願いは叶えられている。女子のための女子の世界。それがぼくたちには眩しくてたまらない。「女子たちに明日はない」という曲が彼女たちにはあったっけ。でも、明日がある女子たちの瑞々しい姿がここにはある。一瞬の輝きが永遠となる普遍がここにはある。
| manga review | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
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