千の旋律、千の悲哀、千の記憶Dear Loneliness Leave Me Alone

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想像力は死んだ、想像せよ。  Imagination morte imaginez 04:28


僕の「笑い」の文化に対する感性は、浅草キッドの水道橋博士および「サイキック青年団」その他のラジオと活字による影響下で形成されたものなので、この度のM1結果に関して仔細に分析する言葉を持たない。年末恒例行事ゆえに家族全員が凝視していたけれども、芸の披露が終わるたびに「風呂に入らな」とか「洗い物をしないと」という具合に一人また一人と散っていった。男前以外は人間として認めない母は呟いた。「チュートリアルが二年連続で優勝やね」。番組合間のオートバックスのCMで流れた二人の掛け合いの方が余程面白いと言いたかったのだろう。


(ネタに関する)トピックの取捨選択の凡庸、フォーマットの凝固による動脈硬化、それにともなう「ロゴス」と「ミュトス」の拮抗と配分(わかり易く言えばロジカルとその対義語であるイマジネーションの調合率だ)、問題として浮上していたそれらは相も変わらず解消されるものでなかった。ピンとして演じれば、それら全てを凌駕できる才はあれど(「世界のナベアツ」が現在試みているアプローチなどはまさにそうだ)、それが二人になるとなんと困窮を極めることよ。コンビが起こす、一瞬を永遠に変えるようなケミストリーなぞ、ことM1に関しては数年に一度しか見受けられない。


2001年の麒麟はロゴスとミュトスを鮮やかに反転させ、2003年の笑い飯はフォーマットの革新的アップデートの完成とトピック・パラフレーズのモディファイを同時に行うという奇跡を演じ、2005年のチュートリアルはイマジネーションのインプロビゼーションによる遊戯の快楽を僕たちに見せつけた。隔年で起こっているその魔法を、本来であれば今年目撃できるはずであった。だが、僕たちが見たものは「下剋上」というイベント運営上のシナリオ面における新手だけだった。どうでもいいね、うん、そんなことはどうだっていい。だって、みんなが望んでいたものはたった一つでしょう。正しい言葉で表現できないけれど、それはThe Boomの「手紙」のこんなラインのようなこと。


「きっと、僕らの夢を完璧に成し遂げてくれるシンガーが出てきたら、
 僕はギターとマイクを置いてそいつの歌に夢中になっているかもしれない。
 僕はただ、音楽を愛していたいだけだ。
 ロックンロールにこめかみを撃ち抜かれたいだけなんだ」



笑いを天職として選択する人間は、神の領域に近づくことをその使命とすると僕は考えている。だが、「笑い」はここ数年の間にメディアによってレイプされ、お気楽でインスタントなものに成り下がり、「お笑い」となった。お笑いに従属する輩はたくさんいたね、一昨日も。氾濫していたね。もうどうでもいいよ。
本当に、そんなことは心底どうだっていい。もっともっと声を大にして言わなくてはいけないことがある。昨日の「オジサンズ11」は本当に素晴らしかった。25日が14回目の命日を迎える逸見政孝氏の回顧プログラム。当然、彼が存命であれば番組タイトルは「オジサンズ12」となっていただろう。それどころか・・・・。

番組は、誰もが記憶の奥底に留めているであろう告知記者会見にフォーカスを当てた内容だった。彼の専属ヘアメイクであり、逸見さんの死化粧(エンゼルメイク)を担当したIKKOさんが招かれ、彼の人となりをオジサンズのメンバーたちと顧みる。彼女が語る死化粧の際のエピソードは、胸を掻き毟らせた。その中にはかつて彼の上司だった者もいれば、部下だった者もいる。盟友でありライバルでもあった男も。僕は久しぶりに自分がかつて書いたテキストを読み返す。そして、思う。今年の日本ほど「逸見政孝的なるもの」が欠落していた社会はない。どんなものか。テキストの一部を抜粋してみたい。





2005年7月22日に一本道ノボル記す。


 20代半ばを中心とした世代にとって、「逸見政孝」という存在はひとつ突き抜けた位置にいる人で(俺に限らず結構な数がそうだろう)、はっきりいって俺にとっては他のどんな対象よりも90年代の象徴であると言える。彼が逝去したのは90年代もまだ序盤の93年12月25日だというのに。あの日のことは、よく覚えている。


 9月8日のカミングアウト記者会見。「病気の名前、病名は、癌です」という発言、そして炊かれるフラッシュ。逸見さんの覚悟を決めた表情。それが悲痛なものとして映った人もいれば、どこか吹っ切れ迷いが晴れたものとして映った人もいる。そこからの四ヶ月は短いようで長いものだった。そしてその年のクリスマスの報道。あんなにも哀しいクリスマスは人生で1993年だけだ。何の関係もない人の死に涙したのも、この時以外に記憶していない(カート・コバーンが死のうが佐藤伸治が死のうが、残念だという想いはあっても悲しくて涙を流すなんてことはなかった)。俺の目に映る全ての人が逸見さんの死を悲しんでいた。ブラウン管からは、山城新伍が「逸見さん、俺の家のカレンダーからクリスマスがなくなっちゃったよ」と弔辞を読んだし、ビートたけしが子供のように泣きじゃくっていた。彼が呟いていた「マーちゃん、早く来てあげられなくてゴメンね…ゴメンね…」という言葉は俺の耳から消えることはない。ニュース番組では、フジテレビの後輩である安藤優子がリポーターとして放送中に号泣してしまい、木村太郎にフォローいれられていた。


 世界の理不尽さを恨んだ。彼を連れて行ったガンという病を恨んだ。人間もまた単に入れ物で、その脆さ儚さを知った。死神の存在を疑った。「他に連れて行く奴なんて幾らでもいるだろ!」と呪詛を唱えた。その時、まだ身内からも死が出ておらず、実感として病魔によってもたらされる死を想ったのもこれが人生で初めての経験だった。


 そして彼の喪失が、10年の時を隔てて現在にその影響を及ぼしている。大きな影を落とすように、この世界を覆いつくそうとしている。それは何もブラウン管の中だけのことではない。世界から「逸見政孝」的なものが急速に失われていっていることを感じる。思い返せば2000年以降、その症状は進行しているようにも。もしかしたら、それらは蔓延るグローバリズムに対して唯一抵抗できる手段を孕んだものなのかもしれない。そんなことを真面目に考えている。それはやはり、「やさしさ」というものの形を変えた転化なのだと。逸見政孝という人間を思い返してみた時に、誰もが感じるそのやさしさというもの。彼と関わった全ての人間が口を揃えて言うところの「彼ほど誰に対してもやさしいくて良い人はいない」という普遍のやさしさだけではなく、"世界を美しく見る方法"としての「やさしさ」というものだって彼は獲得していたかのように俺には思えてならない。


 彼の友人でもあり盟友でもあったビートたけしは言う。


「逸見さんみたいな人は、いまだから真面目と言われるだけで、
 昔なら不真面目。昔は一つのものに集中するひとが真面目だった。
 でも逸見さんはいろんなことに夢中になってるからね・・・」


 彼は、自分の興味のあることを何だってやってしまおうという、自分に対しての「やさしさ」すら持ち合わせていた。ともすれば一つのことを極める道しか用意されない現行のテレビ業界において(アナ出身なら余計のことそうだ)、音痴を逆手にとってトリックスターを演じきりCDデビューまでしてしまったり、趣味のゴルフの延長線に数多くの番組をもたらしめたりもした。それに何よりBIG3を見事にまとめきった。彼の不在により、BIG3がおそらくは永遠に一同に会することはないという事実は、日本のテレビ史にとって痛恨の傷となるだろうが、BIG3の傍に彼がいないことを確認したくないというのも本音。3人はそれぞれの道で活躍し続けてもらいたい。

 彼の急逝から12年。一人は、芸名で呼ばれること以上に、「世界の」という枕詞をつけられた本名で呼ばれる機会が増えた。一人はお昼の顔としての相も変わらぬ毎日と流浪の番組の生活を送り、最年少だった一人は、いなくなった彼の年齢を超えた今もなおカルマを背負ったかのごとく喋り倒している。もうすぐ、また27時間テレビの季節がやってくる。けれども、俺たちはそこで歯の出た男のレンジローバーが勝手に乗り回され、ブロック塀に衝突したり、破壊されたりなどしないことを知っている。歯の出た男は毎年のように若手芸人やSMAP中居と絡みながらも、どこか一抹の寂しさを表情に垣間見せている。「こんなんやない、もっとおもろいことやらなあかん」と、数字は取れなくともスペシャルさだけは確かにあったあの頃の27時間テレビとの乖離に悩んでいるようにも見える。お台場は幻影城であり、本質は旧社屋のあった河田町にあるのだ。全てはやはり彼の不在によって発芽してしまった問題の一端である。

 彼が存命であれば、間違いなく俺たちは毎朝脂ぎって日焼けした男が白い歯をむき出しにして浮かべる醜悪なせせら笑いを見なくても済んでいただろう。政党は彼を選挙に担ぎ出そうとしていただろう。出馬すれば当然のように当選し、彼は議員になっていただろう。いや、彼は一生好きなことだけやっていきたいからと言って、その道を自ら断ったに違いないけれど。その好きなことだって結局は全部仕事に絡めていたんだろうけど。何せ彼の今際のきわに言い残した言葉は「三番が正解です」である。根っからの仕事人間であり、自らの処女作にも「まじめまして逸見です Majime it's Me」と付ける人であり、自分の名前が冠された番組に不祥事が起これば、「知らないところで行われた行為とはいえ、いち放送人として許せない」と番組を終了させたくらいの誠実さを持った人だ。けれど、ビートたけしが語るように、「真面目な不真面目」というアンビバレンスさこそが彼の持ち味であったわけだ。そのアティテュードはまた別の意味で忘れてはいけないんだ。


 彼の不在を嘆くばかりでは何にも始まらない。彼が遺したかけがけのないものを、俺たちは下へと伝えていかなくちゃならない。昔ね、こんな人がいたんだよ、って口承で。逸見さん関係のDVDがあまりにも少ないことは、それを作るのが難しいのは承知の上で、局関係者の怠慢でしかないと糾弾したい。もうそろそろ、逸見さんが最高に輝いていた90年代がどんな時代だったのか、振り返ってみてもいいんじゃないか。






彼の最盛期を知らない人はたくさんいると思う。記憶の片隅からこぼれ落ちんとしている人も。現在の中高生であれば物心つく以前の話だ。YouTubeにもニコニコ動画にも、その雄姿を確認できる映像は残念ながら少ない。僕の海馬のなかの記憶だって美化されていることは間違いない。だけどね、そういう人がいたんだよ。 近代日本のマスメディアの中で本物の「アンカーマン」の称号が与えられる数少ない人。大御所たちの手綱をしっかり握り、心をつかみ、当時の新鋭だったダウンタウンからも全幅の信頼を置かれていた司会者。現在の司会業従事者の大半が羅患している病であるような、醜いエゴを前面に出す押し出す前に、自分以外の人達の魅せ場をしっかりとセットアップする堅実で誠実な仕事をする人が。


上記のテキストにもあるように、自分が関わっていた番組が捏造による不祥事を起こした際には、謝罪の記者会見の席で「タイトルに『いつみの情報案内人』と私の名前がついている以上、私の知らない所で行われた行為とは言え視聴者に対する責任を負わなければなりません」と厳しく言い放ち番組を終了させたんだ。

そして、再発したガンに対する闘病宣言の記者会見。癌細胞と闘う覚悟を語りながらも、「僕は人間ができてないから、怖いです・・・」と吐露する姿。相対するどちらの会見においても、自分が直面した正直な感情を自らの言葉で世に問うた人なんだ。

今年だけでも何十人にものぼった、テレビカメラの前で、書かれた原稿をただ棒読みして頭を下げておしまいとするようなクソ連中とは違う。謝罪会見すらも、PR会社の人間の介在によってコントロールされている日本社会の膿。誰かが不祥事を起こせば起こすほど、懐が潤う人もいるという極めていびつなメディアコントロール社会。そこに一石を投じるのは、逸見正孝的なマインドではないのだろうか。


ベケットは言う。

「想像力は死んだ、想像せよ」

それは、私的解釈では、「想像力を殺すな!」ということの裏返しだ。 あなたの想像力は失われてしまっていませんか? あなたの言葉は、本当に自分の経験と蓄積の中から生まれ出た言葉ですか? この社会が出している膿を身体中に塗りたくって、無理やり口の端を歪めて笑おうとしなくてもいいんですよ。群れから脱出しましょう。繋がりに背を向けて遁走してみましょう。「葬式無用、戒名不要」、僕は真っ白な紙に赤いサインペンでそれだけ書いた紙を封筒に入れて持ち歩いています。もちろん白州次郎の遺言の受け売りですが、僕が自ら連帯を選ばないことの誓いの書の役割でもあります。僕は30を迎えました。それと同時に死ぬ準備を始めました。もう、残された時間はそんなにたくさんあるわけではありません。命に期限が決められないと燃焼できない人にはなりたくないのです。
| coming_out | comments(2) | - | posted by 一本道ノボル
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Comment








元来テレビは観ない性質なので、書いてあることの半分(特に前半)は想像するしか術がないのが残念です。これは、名文ですね。
posted by yas | 2007/12/28 3:48 PM |
yasさんに褒めていただけると本当に嬉しいです! 前半部分は、やはり関西人の端くれとして、またかつては会場でその模様を見ていた恵まれた立場の人間として、一言苦言を呈さずにはいられなかったということで、笑いに対して何もわかっちゃいないのに書いてしまいました。音楽もそうですけれど、誰もが有している感性について言葉を紡いでいくことは本当に難しいですねえ。

一方で逸見さんに関しては、これはもう十八番というか(笑。こうして定期的に自由に書いていけるブログというツールが浸透してくれてよかったですよ。たとえ僕が死んでも、(システムが変わらない限りは)このテキストは残りつづけていきますからね。何年後か、もしかしたら何十年後か、21世紀になって生まれたような子たちがこのテキストを読んで、素晴らしかったあの時代を回顧する契機となってくれたらと願ってやみません。

書いてあることなんて、あらゆる本や人からのサンプリングなんですけれどね(苦笑。僕は何かを成し遂げることはもちろん、もう礎になることくらいしかできませんから、なんとか今の若い世代の人たちに色んなことを伝えていけたらなあと思います。
posted by 一本道ノボル | 2008/01/07 8:41 AM |
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