千の旋律、千の悲哀、千の記憶Dear Loneliness Leave Me Alone

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フラグメント化する社会/パノプティコンをかいくぐって 03:19


この世界の断片化が進んでいることに対して、危惧を抱いたのがいつだったのか明確には憶えてはいない。フラグメントの季節。僕たちは、新たなメディアの登場により、全体ではなく部分の享受に慣れてしまった。感覚が麻痺したという側面はあるだろう。新曲が即座にアップされるmyspaceは、断片による全体の崩落を生んだ。全曲フル試聴は当たり前、アルバムを待たなくともウェブ上を探せば無料ダウンロードできる音源だけで全体の半分以上を構成できたりする現状。ますます音楽雑誌メディアの存在感は希薄になっていくだろう。軽く一例を挙げるなら、音楽誌のアルバムレビューの空洞化は甚だしい。鹿野淳の「MUSICA」は、ミュージシャンに音源レビューをさせるという隠し玉のごとき手法を採用しており、ましてやそれが数多あるレビュー以上の奏功があるのだから、自嘲含めて墳飯ものだ。僕自身、Liricoのスカウンティングにはmyspaceや海外の音楽ブログが欠かせないわけで、その結果として"アルバムを楽しむ"という行為を潔く捨てざるを得なくなったという弊害はどうしたってある。

YouTubeもまたしかりで、見逃したテレビ番組やスポーツのいち場面を脳内でつなぎ合わせて完成させることが一般化しつつある。その場に居合わせなくても、録画しなくても、"それ"と出会える可能性が一気に増した(おかげで楽しめた番組やシーンはすでに数え切れないくらいある)。

フラグメントの強みは今後出てくるのだろうけれど、YouTubeには素人が撮影したライブの流出も数多く、「現場感の喪失」は今後も進んでいくだろうし、そうなってくると行ったり見てもいないのに「行った気になる」「見た気になる」という感覚を警戒せざるを得なくなる。それだけならまだしも、活字化する/言語化するという行為もまた、ブログやSNSの普及によって僕らはたくさんの機会を得るようになった。「つもりになって」言葉を費やすことほど、厄介なことはない。だってそこに 「リアル」は生まれないのだから。それらを含めた問題は、「知」に関してだ。インターネットの普及から進化によるこの10年で、「知」に関するインフラは充足以上のものを獲得したことは間違いない。


「僕は何も知らない。だからもっと知りたい」


自分としてもそういう欲望を枯渇させたことはないつもりだけれど、「知ったつもりになって」何かを得意げに語ったことがないとは言えない。今となってはそれを恥じるばかり。見た「つもり」、聴いた「つもり」、知った「つもり」と、「つもり」でいることを唾棄したのではなかったか。90年代最後の夏のあの日に。「MONSOON」のラジコン号の表紙に躍る惹句に目を奪われた瞬間に。


「ひょっとして何か成し遂げたつもりでいるんじゃねえだろうな
(MONSOONクルーですら思ってないのに)」


THA BLUE HERBのファーストアルバムより、"孤墳"のリリックを引用したこのフレーズ。全く何も成し遂げていない大学生でしかなかった僕でも、背筋が伸びてしまったことを思い出す。そんなことを考えながらヤングサンデーを立ち読みしていたら、山田玲司「絶望に効く薬」のなかでこのようなフレーズに目がとまった。齢80を越えてなお世界を旅し続ける金井重さんの言葉だ。


「いろいろ「知る」から出られないのよ。(中略)「頭」で知ってて、
「ハート」で知らないの。頭で知りすぎていることで、もっと知る
 必要性が生まれないんでしょうね。(中略)「知らない」って
 ことが、「知りたい」という欲望につながるのにね。」




インターネットを通じて氾濫する一途を辿っているからこそ、「(情報の)一次情報を大切にしよう」ということ。それをテーマとして打ち出したのが、2008年春夏コレクションでのRAF SIMONSからのメッセージだった。そのキャッチフレーズは以下のようなもの。

「Forget MySpace, and find your space in the material world.
Reconnect with reality! 」

僕たちは何処かの誰かが体験したことを、ネットを通じて、テキストを通じて追体験できるようになった。そして、現場を知った気分にもなれるようになった。だが、それはその情報の発信者のフィルターを通した、「二次や三次情報」であり、本当の現場で生まれたものとは隔たりが生じてしまっている。その人個人の主観が入ってしまっているわけだから当然だ。

ディスプレイの前から離れ、自分の足で何処かへでかけて、「リアル」を感じて現場を見るのだ!とRAF SIMONSは考えた。それは僕の心をざわめき立たせた。「リアル」こそが己の行動指針だったはずで、いつしかそこに背を向けていたのかもしれない。ネットには書かれない現場もあるのだと痛感したことがはじまりだった。

詳しくは書けない。だが、2007年8月4日に僕の目の前で行われた現実は、本当に衝撃的だった。そこに居合わせた人は50人にも満たない。単なるマンションのパーティルームでそれは開かれた。のべ6時間に渡る圧巻の体験。一本のフィルムの上映と、それをベースにしたディスカッション。上映会では享受者として参加し、ディスカッションの模様は録画され、話者の発言は全て録音されることで、僕たちは発信者としてその場に居合わせることができたのだ。小さな小さな現場のなかで、大きな大きなともし火が点火された。向きあうは、現実。立ち向かうは、世界。立ちすくむも、行動。

「でも、やるんだよ!」

僕たちは、90年代から逃れようとしなくてもいいのだ。90年代のカリスマは、いや、王子は、何も変わらずそこに立っていた。寛容と慧眼。そこで配布されたフリーペーパーには、かつて僕たちを扇動したあの人の名前が真っ先に登場していた。鶴見済。「スタンダップ、ダンスをしたいのは誰?」と問うた人物と、「檻の中のダンス」と看破した人物。00年代に背を向け、90年代へと戻る。違う、90年代から地続きの00年代を生きて、そして10年代を生き延びようと決意したのだ。だって、己の目の前で何ひとつブレのない姿勢を見せられたら、もうお手上げになるよ。90年代レジスタンスの蜂起は、静かに行われた。その現場を目撃してしまったことで、僕の中の憑き物が落ちたとも言える。


そして、タマス・ウェルズ。彼のやさしい歌声に包まれたそれぞれの小さな会場。個人的なブレイクスルーポイントを列挙するなら、それは大阪での何気ない瞬間だった。本編ラストのナンバー、日本公演のためのカバーソングであるビートルズ"Nowhere Man"のメロディが歌いだされた時のこと。会場後ろに鎮座していた僕は、近くにある階段に座っていたその時のイベントの主催者であり大切な友人であるカズキくんと目が合った。「ヤバい」と、カズキくんの口が動いたように感じた。そのアイコンタクトこそが全てなんだと感じたのだ。そこに含まれる情報量の多さ、濃度に気づいた瞬間、現場を共有することの重要性に思い至った。これは、ただ断片を抽出しただけでは、何一つ体験不可能なカタルシスだった。仮にこの時の楽曲がYouTubeにアップされ、それを観たとしても、 原曲をゆうに越えた素晴らしいカバーソングであることは理解すれども、圧倒的な浄化を伴った感動は湧き上がってはこないだろう。1時間に渡り積み重ねられたタマスの楽曲、彼の人柄がにじみ出たMCや演奏後の彼の安堵と満足と不安と緊張がない交ぜになった表情、広がる拍手の渦、たくさんの人の頬を伝った涙の轍、そういった要素が臨界点へと至った末に聴こえてきたあのメロディだからこそ、その価値があるんだ。




ただ、単に現場を共にすればいいというわけではないとも思った。日本において多種多様なフェスティバルという祝祭空間(そう呼べるものは一握りであるとはいえ)が定着した昨今では、万人規模による一体感からくるレゾナンス「以外の」部分に何か光があるのではないかと考えるようになったのだ。実際、昨年参加した唯一のフェスティバルで不満は募る一方で、その考えを新たにしたものだ。それは、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスが指摘している『顔の貧しさ』にヒントが隠されているのではないかということ。情報の氾濫、ネットワークの進化、監視カメラの配備増加(これらはフーコーの指摘する「パノプティコン」(一望監視施設)へと繋がっていくのだろうか)によって、僕たちは「個人という顔」がぼやけてしまっている気がしてならない。それらは、以前の日記で展開したような「日本人が感じる孤独」へとも派生する問題を有しているようにも思える。それなのに個人情報は必要以上なまでのデリケートさで扱いが求められる。実際の顔の貧困が危惧される、その一方でデータ上では手厚く保護されようとしている。その両極端な状況がもたらす歪みは、この世界にどんな影響を及ぼすのか。



貧しくなった顔が見えてくる範囲、人間が本来の顔の輝きを取り戻し、自分以外の他人の顔も確認できる範囲。僕は、それこそが、50人規模の小さなスペースなのではないだろうかと思うのだ。こじつけも甚だしいかもしれないけれど、同規模の収容空間で行われた8月の二つのイベントによって、僕はこのような結論に達したんだ。ディスプレイを離れそんな共有体験を積み重ねていくこと。なんだか宗教的な結論に着地しないでもないけれど、そういう草の根運動にも似たところから改めて始めないといけないんじゃないかなと思う。とりわけ今の日本は、そうだろう。だって、タマスのライブにいた人たちはみんな本当に良い顔をしていたもの。もう一つのイベントに来ていた人たちだって、明日への活力が満ち、胆力が補充されたような表情を浮かべていた。それが僕の財産にもなっている。確信の材料にもなっている。




このテキストは未完のままではありますが、現時点で公開されています。

| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
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