千の旋律、千の悲哀、千の記憶Dear Loneliness Leave Me Alone

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生きていることのなつかしさに。(続・げんてんとは) 01:54


わたしは、自分自身の行動には必ずや理由と根源があると信じているクチで、「なんとなく」や「特にこれといって意味はない」ということが大嫌いなのです。全てにおいて説明が可能だ。そう思って生きているわたしは「クリア」という視座に貫かれている。そんなパースペクティブを抱えて生きることが一つの指針になっちゃっている。だから、ふとした疑問にだってその原初的風景を見出してしまうのです。


「人はどうして睡眠のさいには手を両の太ももで挟むのか」という命題がありますね。わたしの場合はしばしば入眠時に催してしまう欲求ですが。どうしてだろうと考えた時に、わたしにははっきりと一つの風景が見えてくるのです。もしかしたらそれ以前にも本能でやっていたのかもしれませんが、それ以降は意識的になったというターニングポイントがあります。


そこには「死」という概念が関わってきます。


わたしが小学二年生のとき。としは7歳であり、忘れもしない1985年8月12日。御巣鷹山に飛行機が墜落します。日航ジャンボ機墜落事故です。子供のころの記憶がどういうわけだか三十路を越えた瞬間、忘れていたような些細なことまで蘇ったりしているのですが、その時のことだけは今でもはっきりと記憶しています。現在とくらべても鮮明さのかけらもない小さなテレビのブラウン管に映し出されたニュース速報。「123便が行方不明」という文字がもたらす不安感。画面が変わって、広大な山の風景ともくもくと立ちのぼる噴煙。ヘリコプターの轟音。
わたしと同じ小学校に通う三年生と一年生の兄妹が両親ともども犠牲になりました(二世帯八名だったそうですが、残りの四名については記憶にありません)。隣の町の子たちだったので、しょっちゅう遊ぶなんてことはありませんでしたし、その頃からわたしは外で遊ばない特異な子と見なされていたので、そもそも誰かと遊んだ記憶はありません。話はさておき、学校中が大騒ぎになるなか、死がいきなりやってきました。


「のぼるクンこんにちは、死です。はじめましてになるかな。
 今まで僕に会ったことは? ない? そうだよね、のぼるクンの
 お家にお邪魔したことはなかったはずだから。
 このたび、挨拶代わりにちょっと君の周りから二人ばかし命を
 頂いて帰りますね。これから嫌ってほど僕のことを聞くと思うし、
 意識しちゃうと思うけど、それは大丈夫、みんなそうだから。
 それじゃ、いつかまた会おうね。」


わたしは死について深く考えたことはなかったのです。だって、「死」という漢字すら小学三年生で習うの常用漢字なんですもの! 概念の理解に至るまでには到底達していません。幼稚園のころ、友達がブランコから飛んださいに、バランス崩して落ちて顔面が血だらけになっていましたが、それと死が結びつくことなどありませんでした。血が出れば幼稚園の先生が慌てふためく。そんな公式を学んだ程度です。祖父母も健在で、それはわたしの認識できる範囲の全てがそうでした(せいぜい家の半径十数メートルですが)。ペットも飼ってませんでした。いつかは死ぬということはなんとなくわかっていましたが、長い長い順番待ちの果てに訪れるものだと思っていたのですね。8月11日までは。


その点、死のおっちゃんは情けも容赦もありませんでした。予告もなくわたしの周りから命の灯を消し去ります。子供の考える主観ですから語弊も承知で書きますが、絶妙な距離感の人間を奪って鮮烈なデビューを飾りました。しかも家族全員の命です。近親でもない、仲良い友人でもない、かといって全く知らない人でもない。それが、のぼる少年にとって理解も及ばない遠方の出来事であることが、この「あわい」の感情に拍車をかけたことは否めません。御巣鷹山のある群馬県なんて知名はその時初めて知ったくらいなのですから。


家族揃ってディズニーランドへ遊びに行った帰りだったらしい。親たちがそう話しているのを聞いたのか、その後の緊急全校集会で校長先生が話していたことを聞いたのか定かではありません。その瞬間からわたしにとってディズニーランドという場所は忌々しき魔の地として認定されました(人生で二回訪れた記憶はありますが、アトラクションを体験すしたことは今だありません)。こちらは夏休みなのに、登校日でもないのにいきなり全員集められるという、普通とは違うイベントに胸が高鳴っていたのも事実です。なにしろ、見たこともない大きな機材を抱えた人たちがたくさんいるのです! それが取材クルーであることを知ったのはいつになってからのことだったか。はたしてわたしは彼らに取材されたのだろうか。んなわきゃない。ガキにカメラを向けるような反倫理行動なぞ許されるわけもなかったのですね。


二年生の夏、わたしは唐突に死のおっちゃんと邂逅した。彼がもたらした惨状の、真のむごたらしさを理解するのはそれから十年以上が経過し、飯塚訓さんが記した「墜落遺体」という本を読んだときのことです。誰にも薦められない私の人生の思い出本。損壊した遺体の詳細な描写、肉の破片の一部に至るまで誰のものか突き止めてやるという警察関係者・医師・看護師の覚悟と使命感。 大人になったわたしはワンワン泣きました。考えられる上で最も酷い仕打ちだと思った。あの時の軽い挨拶は、実は最も凄惨な執行であったのだ。だが、その憤りは話を逸らすだけなので止めておきます。


死のおっちゃんは決して順番に連れて行くわけではない。我が家でいえば、おじいちゃんがいなくなって、そしておばあちゃんという具合にバトンリレーのようなものだと思っていた。だけど、それはある日突然に指名されるのだということを知った。


「おじいちゃんを連れて行こうと思ってたけど、
 ちょっと向こうじゃ子供が不足していてさ。
 のぼる来てもらえるかな?」


なんて、いきなりクンづけが呼び捨てになってなれなれしさとともに懇願されるかもしれないのだ。あるいは、


「お母さんを募集してます。
 ご飯作ってくれる人が急に必要になっちゃってねえ」


と悩みを打ち明けられるのかもしれない。それは絶対に嫌だ、と思った。自分がいなくなるのも、大切な家族の誰かがいなくなるのも、そんなのは耐えられないと。わたしは初めて本能からくる恐怖を味わったのです。こわい、こわい、死にたくない。誰かが死ぬのもごめんだ。死のおっちゃんが我が家にやってきませんように。当時の我が家は築80年くらいで呼び鈴すらなかったので、外から「おーい、のぼるー開けろよー」なんて声掛けられるかもしれません。そんなこと考えていると、寒くもないのにガタガタ震えてきて、わたしは生れて初めて頭から布団を被って眠ったのです。実はそれまではそんなことをして寝たら「ちっそく」すると思い込んでいてできなかったのだけれど、怖さから布団の中で丸くなっていました。死にませんように死にませんようにと「じゅもん」のように唱えていたのだけれど、ふと手を腿に挟むと心なしか落ち着くことを発見したのです。あれ、なぜだか気がやすまるなあ。そしてすやすやと眠りの世界にいざなわれていく。爾来、儀式的な要素とともにそんなことが行われるようになってしまったのでした。睡眠とは小さな死であるとはよく言ったもんですね。



この話はこれで終わるわけではありません。息子一家をこの墜落事故で亡くした祖父母がいらっしゃるのだ。その悲しみの大きさたるや、今となっては想像を絶するくらいです。一瞬にして自らの子供たちや孫たちを失った。それだけではなく、遺体の照合作業に従事しなくてはいけない。人数分の箱の前に立つ。蓋をあけるとそこには、変わり果てた、まさに言葉にならないくらいに損壊した一部分がドライアイスとともに入っている。「こちらが今のところ判明している部分です」。愛くるしかった孫の面影など、どこにもない。それはただのちぎれた肉の破片でしかない。孫の笑顔ならすぐさま思い出せても、孫の指や爪の形状をはっきりと思い出せる人がどれくらいいるだろう。


絶望という二文字しかない。老夫婦は感情を整理する行為をやめてしまったかもしれない。一生この悲しみを背負って生きていこうと。だけど、孫たちが通った小学校に、せめて何らかの形でその痕跡を残してあげたい。できればずっと二人のことを忘れないでいてほしい。そんな願いから夫妻は供養のために小学校に寄付をしたのでした。その額が幾らにのぼったのか子供のわたしには知る由もありませんが、そのお金を使って学校は本を買うことにしました。何百冊という本を。そしてそのお金で購入した本を、その故人の苗字を取って「小谷文庫」と名付けて開設することに決めたのです。「○○の不思議」といった学習漫画が多かった記憶がありますが、ジュブナイル本も多々揃っていました。古臭い匂いを発する本だらけの中に、まっさらのピカピカの本たちがやってきました。それだけで何だか図書室が明るくなった気がします。


両親が話していたことを記憶しています。「これらの本は、たった二人残されたお爺ちゃんとお婆ちゃんにとっての『きぼうのほし』なのだ」と。「○○くんたちはもう読むことはできないけれど、彼らのぶんまでのぼるには読む義務がある」とは言われませんでしたが、子供ながらに何か感じ取るものはあったのでしょう。一冊いっさつが読んだ子の血となり肉となれば、身体を失くした孫たちの記憶だってそこに一緒に封じ込められるかもしれない。


わたしはそれ以降読書を始めました。本を読むことを憶えたのです。まずはマンガからはじまり戦国武将の伝記へ、そして運命的な江戸川乱歩との出会いも果たします。こうして、わたしの読書体験は、死によってもたらされました。だからわたしの読書体験が終わるときもまた、死によってでしかあり得ないのです。「趣味:読書」とかコンビニに行くような気軽な気分ではとてもじゃないけど書けません。わたしはもう読書をやめることができない。活字を読まなくなったとき、それはもうわたしが死ぬときだ。わたしが本を読むということは、そのルーツとなる小谷文庫で培った経験が今でも脈づいています。そして、幼い二人の生命の犠牲がそこにはあるのです。わたしは、自分のために本を読みながら、誰かのために読んでいるとも言えます。ですが、それは決して二人のことを忘れないために読んでいるといったヒロイズムに支えられているわけではないのです。結果的にはそうなっているとしても、決してその動機は褒められたもんじゃないでしょう。


「死者の記憶が遠ざかるとき、
 同じ速度で、死は私たちに近づく。」


と、石垣りんさんは「弔詞」という詩の中に記しています。わたしは今もあの頃布団の中で怖れ震えながらじゅもんを唱えていた頃と何一つ変わっていません。わたしやその大事な家族に死がやってきてほしくないから、死者の記憶をいつまでも近くに置いておこうというわけです。あの日から20年以上が経過しました。そのあと、たくさんの死がわたしの前を過ぎ去っていきましたが、はっきりしていることはいつかわたしも続くことだけは間違いないということ。今はまだまだ怖くてたまりません。でも、いつかは、こちらではもうやり残したことなんてないというくらいに胸を張って、あちらの世界への門をくぐりたいものですね。さーて、今宵もおやすみなさい。





「おやすみなさい」  石垣りん


人は布団に入り
眠ります。

濡れて、沈んで、我を忘れて。

私たち 生まれたその日から
眠ることをけいこして来ました。
それでも上手には眠れないことがあります。

今夜はいかがですか?

布団から やっと顔だけ出して
それさえ 頭からかぶったりして
人は 眠ります。
良い夢を見ましょう。


財産も地位も衣装も 持ち込めない
深い闇の中で
みんなどんなに優しく、熱く、激しく
生きて来たことでしょう。

裸の島に 深い夜が訪れています。
目をつむりましょう。
明日がくるまで。

おやすみなさい。
| coming_out | comments(0) | - | posted by 一本道ノボル
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