千の旋律、千の悲哀、千の記憶Dear Loneliness Leave Me Alone

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年度末最終日にすべりこませた2007年を彩った書物の数々 (1) 23:50
2007年は自身が20代の終焉を迎える年ということもあり、人文のなかでも思想系の書物を中心に読んだ一年となった。貪欲に下の世代のところへも下りていく。主に中学生に向けた理論社の「よりみちパンセ!」シリーズや、高校生のための「ちくまプリマー新書」などから改めて目から鱗の経験を得た、そんな年。感銘を受けたトップワンはセットで2作。ちなみに現時点(2月末)での今年のベストは文句なしで森達也の「死刑 人は人を殺せる。でも人は人を救いたいとも思う。」(朝日新聞社)だが、この本はトップの2作とともに読むとさらに精度が増し、深い深い場所へと潜っていける。



■辺見庸 「たんば色の覚書 私たちの日常」(毎日新聞社)

 日常とはなにか、私たちの日常とは。それは世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいき、予定通り絞首刑を行うような狂れた実直と創造の完璧な排除のうえになりたつ。

                  (P52 自問備忘録より)


辺見庸は突き付ける。目を逸らそうとする人間にも、見ないように瞼を閉じる人間にも、しっかりと突き付ける。「お前は想像力を手放したのか?」と。「微温湯としての日常と引き換えに、くだらない連帯の代償に、表面上の繋がりに、お前の一番大事なものを対価として売り払ったのか?」と。世界を美しく見ようとしたいのならば、まずは世界の醜さをしっかりとその眼で確かめるところから始めろと病床から彼は記す。実際のところ、そんな直截的かつ挑発的なことは書いてないけれど、僕はそう読み取った。2007年7月28日京都Metroでひっそりと行われた彼の講演「私たちの日常」の全文を読んで欲しい。CCRの「雨を見たかい」とニルヴァーナの「MTVアンプラグド」が、糜爛したメディアの腐臭と確定死刑囚の日常へと繋がり、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の死刑執行シーンの頸椎骨が折れる音がメルヴィルの「バートルビー」における抵抗の手法へと展開していく。ここに記されている表現は、自らの余命が残り少ないと覚悟した者の魂の記銘だ。残された時間の使い方をしっかりと見据えた者の業火のごとき燃焼だ。だからこそ、そんな男の言葉に耳を傾けてほしいと願う。一人でも多く気付いて欲しい。群れから逃走せよ、想像力を取り戻すために。


僕はこの本を読んでから、しばしばジョギングがてらにとある一本の巨木の前に足を運ぶようになった。実家から車で5分も走れば、それはある。隣市の、山奥の中に。かつてあった企業の敷地内に。数年前までは、鳥インフルエンザの発生源として問題を起こした養鶏会社がそこにあった。そして、僕の眼前にそびえ立つ巨木で、会長とその妻はメディアの集中砲火を浴び追い詰められ首を吊った。大きな大きな木だ。僕は想像する。人生に疲れ果てた夫妻は、贖罪のために自らの命を捧げる。彼らが縄を括りつけたのは、あの枝だろうか、それともあっちか。縄は丈夫なものを選別したのだろうか、それとも手近にあったもので済ませたのだろうか。まだ夜も明けきらないサイレントブルーの時刻、二人は意を決して全体重を預ける。二人一緒に、せーので。あるいは夫が先に逝き、そして妻が後を追ったのか。もしかしたら互いの身体を結んでいたのかもしれない。使用した縄によっては即死にいたらず、酸欠で苦しみぬきながら死んでいくことになる。彼らはどっちだったのだろう。直ぐにか、さもなくば苦悶か。やがて失禁が起こり、股間から大腿を通って地面へと伝わったかもしれない。それはまるで点滴のように、ポタリポタリと落ちていったことだろう。二人を殺した木は、今もそこに生えている。やがて、また僕の目の前で青々とした葉を息吹かせるために。


そしてこの本は、副読本を用意すればさらにそのメッセージが引き立つ。



■星野智幸 「無間道」(集英社)
 

 傑作。私はこの小説を、椎名軽穂の「君に届け 5巻」のような爽やかな少女マンガと一緒に読まなくてはともてじゃないが読破できなかった。だが、この、反吐が出るような小説世界が荒唐無稽のものと思わなかった人間は意外と多いのではないだろうか。筆者の作品の中でもベクトルを同じくする、「ロンリー・ハーツ・キラー」の発表時とは全く違う時代の空気感。収録された三篇の中編は、「自殺奨励社会→ライフコントロール社会→いじめ」と主題を転々としながらも全てが繋がっている。とりわけ表題作に顕著であるが、徹底的に死を軽々しく描写することは、転じて死の重さの諷喩となっている。頸られ、腹を捌かれ、飛び降りて脳漿が散らばり、腐った肉体に蛆が沸く。私たちがどんな方法をとっても、結局のところ向かう場所は一つだ。そして、それを拒むことなんてできやしない。この本は、ゼロ年代版「完全自殺マニュアル」の役割すら果たしている。徹底的に死へと至る手法をカテゴライズして網羅することで、逆説的に生への強烈な動機付けと覚悟を促していた同書。それは星野自身も意図していないだろうし、当然ながら誰も指摘していないが、私が書いておく。


 だが、この本で唯一許せない部分がある。それは個人的な嫌悪でしかないのだが、あまりにも配慮に欠けているとしか言いようがない。それらの用語を使用することで、物語と文章そのものにドライブ感は生じているが、同時にそこにあるはずの含意が消失してしまっている。それは「一人で死ぬこと=ソロ、二人=デュオ、三人=トリオ、以下続く」という具合に造語を用いていることだ。その感覚はアイロニーとしてはさもありなんと思うのだけれど、小説世界では一人で死ぬことが完全なる侮蔑の対象とされている。「ソロ落ち決定ね」という具合に。誰かと繋がっていなければ不安でしょうがないという現在のケータイ依存・SNS依存社会を逆手にとり、死ぬ時も誰かを道連れにしたり連れ立たないと人として惨めな存在でしかないという状況を描き出した星野の意図は十分わかる。


 だけど、ちょっと待ってくれ。その単語をそういう風に使わないでくれ。「ソロ」とは、選ばれた気高き者だけが手にする称号であり、孤独というプレステージへと到達できた者にだけ贈られる名誉でもあるのだ。こればっかりは読んでいてむかっ腹が立って仕方がなかった。傑作にケチをつけたいわけではないけれど、なんだか哀しい気持ちになってしまったのだ。詳しくは以下の日記を参照のこと。

 http://llorando.jugem.jp/?eid=10#sequel

 http://llorando.jugem.jp/?eid=11#sequel
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